法制史学会第66回総会のご案内
法制史学会第66回総会を下記の要領で開催いたします。ふるってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
総会等への参加につきましては、同封の振込用紙に必要事項をご記入のうえ、5月9日(金)までに振込手続をお済ませください。お振込みの確認には若干の日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守くださいますようお願い申し上げます。
なお、非会員の方々も、当日会場にて参加費をお支払いただけば、研究報告に限り自由に傍聴できます。ご関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。
(1)研究報告
第1日:2014年5月31日(土)午前9時30分開始
第2日:2014年6月1日(日)午前9時30分開始
会場:専修大学神田キャンパス2号館302教室
参加費:1,500円
(2)懇親会
日時:2014年5月31日(土)午後6時15分開始予定
会場:専修大学神田キャンパス1号館15階ホール
参加費:6,000円
(3)見学会
見学会は実施いたしません。
(4)昼食
神田キャンパスには食堂数は少なく、日曜日は閉店いたします。またキャンパス周辺も日曜日に営業している店舗は限られます。両日とも弁当(1,200円)のご利用をおすすめいたします。事前にご予約いただいた分のみのご用意となりますので、ご利用の方は同封の振込用紙にてお申し込みください。
(5)宿泊
申し訳ございませんが、準備委員会では宿泊のお世話はいたしておりません。
なお、会場至近には次のホテルがあります。ご利用の際は各自でご予約ください
◆ホテルヴィラフォンテーヌ九段下 03-3222-8880
◆京王プレッソイン九段下 03-3511-0202
◆ホテルグランドパレス 03-3264-1111
(6)連絡先 ※なるべくE-mailをご利用下さい。
〒101-8425 東京都千代田区神田神保町3-8 専修大学法学部 鈴木秀光研究室内
法制史学会第66回総会準備委員会(鈴木秀光)
電話:03-3265-4317(鈴木秀光研究室 大会当日はつながりません)
当日緊急連絡先:080-2331-4955
Fax:03-3265-6297(神田校舎研究室受付 大会当日はつながりません)
e-mail:xiuguang@isc.senshu-u.ac.jp(鈴木秀光アドレス)
【会場へのアクセス】
•水道橋駅(JR)西口より徒歩7分
•九段下駅(地下鉄/東西線、都営新宿線、半蔵門線)出口5より徒歩3分
•神保町駅(地下鉄/都営三田線、都営新宿線、半蔵門線)出口A2より徒歩3分
総会プログラム
第1日 5月31日(土)
9:30~10:30 | 旧刑法「親属例」の成立をめぐる一考察 | 三田奈穂(成蹊大学) |
10:30~11:30 | 古典期ローマ法学者たちの使用取得要件論における パウルス『告示註解54巻』の独自性
| 宮坂渉(筑波大学) |
11:30~12:30 | 昼休み | |
12:30~13:30 | 飛鳥浄御原律の存否に関する一試論 | 上野利三(三重短期大学) |
13:30~14:30 | 戦国大名武田氏における暴力の規制について | 畠山亮(龍谷大学) |
14:30~15:00 | 休憩 | |
15:00~18:00 | 〔ミニシンポジウム1〕 ウェーバーにおける「法」概念をめぐって | 小川浩三(専修大学)、広渡清吾(専修大学)、水林彪(早稲田大学)、三成賢次(大阪大学) |
18:15~ | 懇親会 | |
第2日 6月1日(日)
9:30~10:30 | 近世前期の触書とその伝達からみた幕藩関係 | 門脇朋裕(国際日本文化研究センター) |
10:30~11:30 | 裁判制度における「基礎付け」と「事例参照」 ──中国律の法的性格に即して | 寺田浩明(京都大学) |
11:30~12:30 | 昼休み | |
12:30~14:30 | 総会 | |
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14:30~17:30 | 〔ミニシンポジウム2〕 戦時・戦後における「経済法」 ――比較法的観点から | 伊藤孝夫(京都大学)、小石川裕介(後藤・安田記念東京都市研究所)、出口雄一(桐蔭横浜大学)、松本尚子(上智大学) [コメンテーター]:泉水文雄(神戸大学)、永江雅和(専修大学)
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17:30 | 閉会 | |
報告要旨
旧刑法「親属例」の成立をめぐる一考察
三田奈穂(成蹊大学)
民法七二五条(親族の範囲)をめぐっては、その存廃をはじめ、親族の範囲が妥当であるか等、種々の議論が展開されてきた。同条は明治民法の系譜を引くもので、法典調査会の議事録には、新律綱領五等親図や旧刑法第一〇章「親属例」(一一四および一一五条)、古代律令、近世の服忌令等が外国法と併せて立法過程で参照された事実がみえる。特に旧刑法親属例は、民法が存在しないために設けられたと一般に理解されており、以上からも同条をめぐる本質的な議論を展開させるには、親属例の制定経緯を詳らかにすることは有益なことといえる。
先行研究は親属例設置の背景について、清律の影響を示唆してきた。親属例が新設されたのは、旧刑法編纂のなかでもボアソナードを含めない日本人委員のみによる刑法草案審査局の段階においてであり、親属例は五等親図を受けて成立したものであると考えるのは、ある意味で自然である。しかし、五等親図と親属例の内容は全く同一ではないことは明らかである。
ここで、新たに供された史料(慶應義塾大学図書館所蔵村田本「日本刑法草案 全四冊」)をひも解くと、次の事実に気がつく。すなわち、親属例は日本刑法草案一八七条の親族による犯罪に関する特例より、総則に移動させて出来上がった定義(概念)規定であるということ、そして、当初は一一四条のみで構成されることが予定されていた事実である。刑法草案会議筆記のなかには、ボアソナードと逐条討論した鶴田皓の、「他日図觧ヲ作テ総則中ヘ置キ之ヲ以テ此刑法中各条ニテ親属ヲ区別スル例ニ推シ用ヒ此ノ条ヘモ特書セントス故ニ之ハ右図觧ヲ作ル時ノ詳議ニ譲ルヘシ」という発言が残されており、以上からも司法省の編纂段階で親属例の設置が検討されていた事実がうかがえる。
親属例のうち一一四条は明治九年の司法省の段階から検討されていた内容であるが、一一五条は、明治十二年に入ってから起草されたものであると推測できる。同年、審査局では妾の存置をめぐって議論が生じ、条文を掲げて太政官に指令を仰いだ。そこで求められたのは、妾の文言は削除するが、「妾ノ子其父母ニ於ケル権義ハ仍ホ従前ノ通タルヘシ」という庶子身分の保護である。同条は、右指令を受けて成立したものと考えられる。
以上から、立法技術的に設置された一一四条と、家族法をも視野に入れて定義された一一五条は、異なった事情のもとで成立した規定であるといえる。
古典期ローマ法学者たちの使用取得要件論におけるパウルス『告示註解54巻』の独自性
宮坂渉(筑波大学)
使用取得usucapioとは、古典期ローマ法における市民法上の所有権を取得する方式の一つである。使用取得の要件として、中世の註釈学派以来5つの要件が、ヘクサメトロス(六歩格)と呼ばれる詩形に要約されて伝えられてきた。すなわち「使用取得可能物res habilis、権原titulus、善意fides、占有possessio、期間tempus」である。そのうち「権原(史料上はpro ?(例えば、買主としてpro emptore、相続人としてpro heredeのように)と表現される)」は、しばしばローマ法研究者によって占有取得「原因causa」と置き換えて考察されてきた。その上で、「原因」と「善意」とがそれぞれ意味するところと、それら相互の関係につき、ローマ法研究者の見解は完全に対立してきた。
近年、Poolはこの対立を解消しようと試みるとともに、5要件の再検討をも提唱している。彼によれば、古典期ローマ法の使用取得には相互に独立した3つの要件があった。第1に「要件を備えた占有possessio pro ?」、第2に「使用取得可能物」、第3に「1年若しくは2年の占有継続continuatio possessionis」である。そして、「要件を備えた占有」の下に、占有取得「原因」、占有に瑕疵がないこと、「善意bona fides」の3つが相互に独立して位置づけられる。したがって、pro ?と表現されるのは占有の特性であって占有取得「原因」ではないことになる。(以上、エリック・ポール著、西村重雄訳「時効取得要件における「原因」の意義―古典期ローマ法研究―」法政研究70巻3号(2003年)103-150頁、を参照)
このような研究状況のもとで、報告者はこれまで、もう一つの市民法上の所有権取得方式である引渡しtraditioについて、その要件の一つであり占有取得原因でもある、引渡しの正当原因iusta causa traditionisに注目しつつ、研究を進めてきた。特に、従来の通説が、引渡しの正当原因にかんする史料の少なさを、「権原」と「原因」とを無批判に置き換えることにより、使用取得の「権原 pro ?」にかんする史料で補う結果、古典期ローマ法における所有権移転の有因性原則との矛盾を生じさせること、それゆえ引渡しの要件と使用取得の要件とは分けて考察すべきこと、を指摘した。そして、Poolとは出発点こそ異なるが、使用取得の要件の再検討を行う必要性を認識し、そのための手がかりとして、使用取得の要件の一つである「使用取得可能物」、とりわけ盗品res furtivaについても考察した。
以上の過程では、引渡しと使用取得とが扱われている学説彙簒41巻が、古典期後期の法学者パウルスの著書、とりわけ『告示註解54巻』から採録された法文を中心として構成されていることから、パウルスの見解が主要な検討対象となった。その検討の結果、従来パウルスは、セウェルス朝期において、古典期盛期の法学者たちの学説の集成と体系化を担った世代の一人とされてきたが、こと告示註解54巻にかんしては、彼の叙述は彼以前の法学者たちに比して、例えば「占有」、「原因」、「善意」といった概念について、理論上の独自性を有しているのではないか、と考えるに至った。仮にこのような仮説が成り立つならば、当該時期における政治体制の変動と古典期法学の質的変化との関係性について、新たな視座を獲得することができるように思われる。
そこで本報告では、このような作業仮説が成り立ち得ることの例証として、使用取得の要件にかんする学説彙簒の法文、とりわけ買主としての使用取得usucapio pro emptore、および自己物としての使用取得usucapio pro suoについての法文から、パウルスの見解の独自性を明らかにすることを試みる。
飛鳥浄御原律の存否に関する一試論
上野利三(三重短期大学)
これまで難解とされてきた飛鳥浄御原律の存否に関する試案を提示したい。この律はこれまで、(1)編纂されず、唐律で代用、(2)編纂され、施行された、(3)編纂されたが、不施行、の三説があり、(1)が有力視されている。その論拠の(一)は持統紀三年六月の記事に令の班賜は簡述されているが、律については触れられていない点にある。(二)十悪という律語がしばしば見られるが、これは唐律の用語であるとされる点。悪なる字は我国では不善の意味はなく「猛々しい」の意味で用いられ、それ故大宝律では虐字に書き換えられたという(利光三津夫)。だが古代の諸書に悪字がそのような意味で使われた例は一つもない。また利光説では八虐に悪逆が存在することが説明できない。十悪は唐律の用語と限る必要は無く、日本の律でも悪字を用いて差し支えなかったのである。十悪=唐律の既成概念は取り払うべきである。
浄御原律に十悪が存した例として文武三年十月の続紀の詔赦に「十悪強窃二盗、不在赦限、為欲営造越智山科二陵也」とあり唐では例のない陵営造のための赦が出されている。他の赦令(持統紀六年七月、続紀文武四年八月)に見える十悪も同様である。五罪・十悪(或いは八虐)六議条の大宝以前からの存在の可能性を説く吉田孝「名例律継受の諸段階」の論はこの考え方と矛盾しない。なお五罪・十悪(或いは八虐)六議条はそれだけでは総体としての刑罰は機能せず、律諸条の処罰規定が存してこそ律本来の機能が発揮できる。又浄御原時代以前に見られる十悪中の各語(内乱=履中紀、悪逆=推古紀、謀反=大化期等、大不敬事件=天武紀)は律令摂取以前の語で信憑性には疑義があるとされるが書紀は大宝律令時代に編纂されたとの考えは厳密には正確でない。浄御原律時代から帝紀・旧辞をもとにした書紀の編纂は始まっており、この時代の事柄を反映した律語の記述もあったと見なくてはならない。大赦記事が唐代文献からの直写でない事は佐竹昭『古代王権と恩赦』が証明しているが、持統紀三年三月以降の赦文に現れる「唯常赦所不免、不在赦例」の語句は養老律では名例律18、賊盗律15・18、断獄律20・21の各条に直接係わる文言である。又持統紀七年四月の内蔵寮を巻込んだ事件裁判は名例律17・19・33、賊盗律35、闘訟律60、雑律1に関わるとされ唐律代用論者の林紀昭「飛鳥浄御原律令に関する諸問題」はそこに唐律の体系的採用が認められるという。だが直訳的な継受であっても、実施困難な条項を改変削除して用いられたならば、それは最早我国の体系的な律といえるのではないか。因に大宝律令後の続紀に見える「新令」(大宝元年三月)は古令=浄御原令に対するものだが、同じく「新律」(大宝二年七月)とあるのは古律=浄御原律に対するものと解釈できるのではあるまいか。その古律の完成は持統三年頃を想定したい。
政変後の浄御原時代は厳しい軍政がしかれた統一王権の形成・確立期であり、又国際情勢も殊更に緊迫していたから、刑罰体系の整備は急務であった。律令の更改を宣した天武十年から令の班賜まで九年もの歳月が経過しているが、この間に編纂を終えたのは果たして令だけであったのだろうか。抑、当該律令は公布と施行を伴ったものと見るか、或いは律典だけは公布されずに為政者の手元に蔵され、事案が発生したときに律条が適用されるという形であったのか、等々を考えてみる必要があるであろう。
戦国大名武田氏における暴力の規制について
畠山亮(龍谷大学)
戦国大名と暴力とが密接な関係にあることは周知の通りであるが、それが法的にいかなる意味を持つのか、換言すれば、暴力の規制と戦国大名権力とがどのような関係にあるのか、法史学的観点からの実証的な専論は実は必ずしも多くはない。本報告は、戦国大名武田氏領国をフィールドとして、これを試みるものであるが、それに際して、留意するべき三点を提示しておく。
第一に、〈喧嘩両成敗法〉の存在についてである。喧嘩をした両者に対して、その理非を考慮せずに同等の処罰を加える、というこの法理は、長らく戦国法研究の中心とも言うべき位置を成して来ており、戦国期における暴力とその規制について検討する上で重要かつ好適な素材であるが、加えて、この法を規定する分国法「甲州法度之次第」第十七条は、隣国の戦国大名今川氏の分国法「今川仮名目録」第八条を基に置かれており、武田・今川両大名権力の法制の比較対照へと繋がる橋渡しともなり得る存在と言える。
第二に、武田氏の法制を考える際、「甲州法度之次第」を中心に据えることそれ自体に異論は無いが、言うまでもなくそれだけでは不十分であり、その他の法や事例についても丹念に収集し、それらを合わせて考察・分析する必要がある。それは、特徴的な〈喧嘩両成敗法〉に注目が集まりがちな研究視角に注意しながら、暴力規制全般を対象に論じることを意味し、したがって、より総体的な戦国大名領国法制の展開図を明示することになると共に、翻って〈喧嘩両成敗法〉の再定位にも繋がることが想定される。
第三に、武田氏権力は、今川氏・後北条氏・上杉氏といった有力大名領国に接し、それら近隣勢力と争い続け、また河内の穴山氏や郡内の小山田氏といった有力国人(国衆)を内部に抱える形で成立していることから、かねてより戦国大名権力それ自体を問い直す議論も盛んに行われて来ている。かように内外に様々な関係・事情を有する武田氏を扱うに当たって、信虎から晴信(信玄)そして勝頼と、それぞれの時期ごとの移り変わりや置かれている状況に目を配りつつ、様々な政策をも視野に入れて考察することで、戦国大名権力の在り方と暴力規制の関係性について、より精確に描出することができると考える。
〔ミニシンポジウム1〕ウェーバーにおける「法」概念をめぐって
小川浩三(専修大学)、広渡清吾(専修大学)
水林彪(早稲田大学)、三成賢次(大阪大学)
本年は、マックス・ウェーバー生誕150年にあたる。本ミニシンポジウムはそれを記念して、ウェーバーの「法」概念について法制史学の視角から検討を加える。検討の中心は、彼の「法」の形式的性質(formelle Qualität)という捉え方(コンセプト)である。「形式的」と日本語に訳される場合に、ウェーバーの原語ではformellとformalとがある。テクスト校訂の問題が関連するが、この両者は基本的には厳密に区別されている。しかし、日本語訳では、たとえば代表的な世良晃四郎訳『法社会学』においては、必ずしも区別されて訳されてはいない。この両者が、ウェーバーのテクストにおいてどのように区別されているのか、そしてこの区別が彼の「近代法」の捉え方にとってどのような意味をもつのかについて、水林が総論的に検討を加える。次に、ウェーバーが歴史的研究を通して、「法」の「形式的性質」をどのように捉えているかを、最近の歴史研究をも参照しながら、小川が検討する。最後にウェーバー以降の発展について、とりわけ「福祉国家」の成立による「法の実質化(Materialisierung)」およびそれに対する批判としての「法の手続化(Prozedurali- sierung)」といった問題について広渡が検討する。
近世前期の触書とその伝達からみた幕藩関係
門脇朋裕(国際日本文化研究センター)
触書は江戸幕府が発布した単行法令で、一般に触れ知らすべきものである。その適用範囲は全国全領を対象としたものだけではなく、幕府直轄領の御料のみのものや江戸町方など特定地域を対象にしたものなど様々であった。本報告では、このなかから全国に発せられた触書(主として諸大名に伝達された触書)について、幕府だけではなく萩藩や盛岡藩などの藩政史料を用いて、発布の形式、伝達方法、触の内容などを考察し、触書の形式と伝達の視点から幕藩関係を検討することを目的とする。
触書をめぐる研究は、これまで近世後期を中心に多くの業績がみられるが、近世前期については「酒造制限令」などの一部を除き、本格的な研究がなされているとは言い難い。
したがって、今回は、研究成果が少ない近世前期(具体的には八代将軍吉宗の享保期以前)を考察期間とする。
触書の諸藩への伝達は、幕府初期の段階では老中が諸大名やその留守居役に対して口頭で伝達することが主流であった。しかし、四代将軍家綱の寛文期以降になると文書を用いて伝達する方法がとられるようになる。やがて、五代将軍綱吉の治世下になると触書の用途が拡大し、それに伴い、その発布数も大幅に増加することになった。そこで、触書の作成や伝達を合理的に実行する手段として「大目付廻状」とよばれる廻状形式の文書が用いられることになり、享保期以降は「大目付廻状」が諸大名への触書伝達の原則的な手続きとなった。また、諸藩に伝達された触書の内容については、綱吉政権の初期までは、「酒造制限令」やキリシタン禁令、倹約に関する規定など、幕政上の基本方針や特定の身分階層を対象としたものなどが中心であったが、綱吉政権以降は、時の政権が重要視した諸政策や徳川将軍家の儀式に関するものなど多様な内容となり、諸藩の領民を対象とした触も増加していった。また、これらの事情から触書を用いた政策の転換点が綱吉政権であったとも考えられよう。
報告では以上を踏まえ、幕府の触書による大名統制の変遷や幕政前期の法政策、将軍権力の問題などに言及したい。
裁判制度における「基礎付け」と「事例参照」──中国律の法的性格に即して
寺田浩明(京都大学)
伝統中国の律例は官僚達によって活発に援引されるが裁判を全面的に統御するものではない。判決の基礎はむしろ個別事案に即した「情法の平」(犯情と刑罰のバランス)の実現にあり律例はその例示の位置に立つ。皇帝は「情法の平」の体現者として律例を作ると共に、必要とあらば自ら律外の判決を下し、その一部はやがて条文化され律例体系の中に組み込まれる。そこで律例をめぐっては「皇帝の意志」を源泉とする「官僚統制の為の法」という性格付けがなされることになるのだが、ただそれだけだと今度はその皇帝と「情法の平」との関係、および官僚の裁判実務に端を発する法形成の契機が見落とされてしまう。
考えるに律例の役割は全国量刑の画一化にあり、その裏にあるのは「同じものは同じく違ったものは違えて」という裁判の公平・法の統一の要請である。ただ同じ問題・同じ要請は世界中の大規模裁判制度の何処にでもある筈であり、そして実際、現代日本では裁判に際して裁判官が随時自発的かつ相互的に先行裁判事例の全体(「量刑相場」)を参照し判決を下すという仕方で量刑の統一が図られている。また現代アメリカ合衆国では同じことが、年度毎に裁判所中央が先行事例を集約整理し詳細な量刑目安を作り現場裁判官に権威的に示す仕方で実現されているという(「連邦最高裁量刑テーブル」と「量刑ガイドラインマニュアル」)。つまりそこでは判決を基礎付ける刑法典とは別に裁判所の手により量刑統一の為に実定法もどきが作られる。伝統中国律例の類似物は意外にも現代アメリカ合衆国の中に見て取れる。
どうやら裁判制度には、何らかの一般的枠組みによって個別判決を基礎付けるという契機と、そうして基礎づけられた判決相互を擦り合わせて統一するという契機との二つがあるらしい。どちらも正面から法の問題であり、そして実定法化はそのどちらでも起こりうる。そこで本報告では、こうした二契機のあり方とその組み合わさり方を改めて整理し、伝統中国の法と裁判をその中に位置づけてみたい。
【参考論文】
拙稿「「非ルール的な法」というコンセプト──清代中国法を素材にして」(『法学論叢』第160巻第3・4号、51~91頁、2007年)、同「裁判制度における「基礎付け」と「事例参照」──伝統中国法を手掛かりとして」(『法学論叢』第172巻第4・5・6号、46~79頁、2013年)。いずれも「寺田浩明の中国法制史ホームページ>著作目録」からダウンロード可能。
〔ミニシンポジウム2〕 戦時・戦後における「経済法」――比較法的観点から
伊藤孝夫(京都大学)、小石川裕介(後藤・安田記念東京都市研究所)
出口雄一(桐蔭横浜大学)、松本尚子(上智大学)
コメンテーター:泉水文雄(神戸大学)、永江雅和(専修大学)
これまでの日本近代法史研究において、20世紀前半、とりわけ1920年代から40年代にかけての時期は、明治国家において「近代法体制」が一応の完成を見たという認識を受けて、主として「近代法の展開」あるいは「再編」という問題意識の下で把握されてきた。この問題意識は、言うまでもなく、「近代法」や「現代法」とは何かという巨大な問いに接続するものであり、法制史学会では、1999年の創立50周年記念シンポジウム「近代法の再定位」をはじめとして、この点を常に自覚的に問い直して来ている。
ところで、上記の「近代法の展開」あるいは「再編」の過程は、政治史や経済史、更には思想史等の領域において1990年代から盛んに行われるようになった、戦時における社会変動を「総力戦体制」や「戦時動員体制」等の観点から実証的に捉えようとする研究と架橋することが可能であるように思われる。これらの研究動向との架橋を行うことは、「近代法」や「現代法」とは何かという問いに対する多角的なアプローチへと接続することになろう。
その架橋のための切り口として、本シンポジウムでは「経済法」という概念を取り上げる。外国法の「立法的摂取」の時期を終えて、「法学的摂取」の対象となったドイツ法学の下で「学知」として体系化されていた日本の法は、20世紀初頭には比較法的な「自覚」の時代を迎えていたことが指摘される。第一次世界大戦による社会変動を受けて、20世紀初頭のドイツにおいて提起された「経済法」概念は、公法と私法を二元的に把握する「近代法」のあり方を相対化するモメントを含んだものとして、同時代の日本に自覚的に受容された。とりわけ、戦時において求められた経済秩序を中核とする「統制」は、法学者・法律家を含む当時の知識人にとって、それまでの社会・経済のあり方について本質的な部分での見直しを迫るものであった。しかし、第二次世界大戦後における連合国による「占領管理」は、アメリカ型の競争秩序の影響下において日本とドイツの「経済法」概念を大きく動揺させるに至る。
本シンポジウムにおいては、上記のような変遷を辿った「経済法」を素材として、隣接領域における歴史研究との対話可能性を意識しつつ、日本とドイツ、更にはアメリカを視野に入れた比較法的な検討を行うことによって、20世紀の法と法学における「戦前/戦時」と「戦後」の関係を問い直すことを試み、「近代法」や「現代法」の含意を再考することを目的としたい。