法制史研究 67号(2017年)和文要旨

【論説】

穂積重遠の「親権」論―児童虐待防止法の実現に向けた原胤昭との協同―
小沢 奈々

 本稿では、大正・昭和戦前期に興った様々な学問的潮流のなかのひとつである「社会学的法律学」を、現代法学につながる重要な潮流として捉え、そのなかの代表的人物である家族法学者穂積重遠に注目する。穂積重遠はその当時において、東京帝国大学法科大学で教鞭を執るかたわら、臨時法制審議会での民法改正作業をはじめとする立法活動や東京帝大セツルメントなどの社会事業にも携わった人物である。こうした多方面にわたり活躍する重遠の家族法理論を捉えるためには、従来の学説研究に見られる彼の著書・論文のみからの分析だけではその実相に迫ることが十分に出来ない。そこで、彼の法理論を支えた、彼の立法活動や社会事業活動も含めて把握することが必要不可欠であると考える。また重遠には、様々な人物との協力関係のもとで学問の成果の具現化を図る傾向も見られるため、人物交流という観点からも考察を行っていく必要があるだろう。
 以上の問題認識のもと、本稿では、昭和8年制定の児童虐待防止法をめぐる重遠の一連の活動を一例として考察することで、少年時代における更生保護の父・原胤昭との出会いが社会事業へ関心を抱くようになったきっかけとなり、その後、原が取り組んでいた事業のひとつである児童虐待防止事業をなかば引き継ぐようなかたちで、内務省社会局での「児童虐待防止法に関する法律案要綱」の制定ならびに児童擁護協会での社会事業に携わったことを明らかにした。また、児童虐待防止法の制定において大きな障壁となった「親権」について、その制限が法律や勅令であってもできるかについての疑義があった当時にあって、立法による親権制限が可能であることを親権理論として基礎づけることを可能にした彼の親権解釈にも注目した。国家に親の親権行使を補完・制限する権限を与える点において、彼の学説は一見、醇風美俗を想起させる保守的傾向を有しているように思われるが、実際の諸活動を照らし合わせてみることで、そこには、当時の置かれている状況を突破しようとする彼の実践的な性質を浮き彫りにすることが可能となる。「子の利益」の実現こそが彼の親権論の核心にあり、子供の身を守るための応急措置を可能とする解釈論を展開していることが明らかになった。重遠の分析にあたっては、法理論だけに注目するのではなくて、彼の活動全般のなかに彼の理論を位置付ける視座が必要であることが本稿を通して確認することができる。

・キーワード:穂積重遠、原胤昭、児童虐待防止法、内務省社会局、児童擁護協会、親権、公的義務説、子の利益
平田小六の農民小説に描かれた組合に関する法的考察
頼松 瑞生

我が国の農民文学は、明治40年代に確立した。そのテーマとなっているのは、地主から抑圧され、貧困に苦しむ農民である。昭和初期になると、それはプロレタリア文学の影響を受けて、農民組合の結成や小作争議など、農民の抵抗運動を描いたものが多く発表されるようになった。平田小六の長編小説「囚はれた大地」(昭和8~9年)も、その一つに挙げられる。平田は、大正末期、青森県北津軽郡で小学校教員をしていたが、その時に農民たちと接した経験が小説の題材となった。「囚はれた大地」では、農民たちが、村の有力者たちが設立した産業組合を見限って、木炭販売のための農民組合を結成しようとする状況が描かれている。本稿では、この小説を中心として、平田小六の農民小説を取り上げ、農村における組合に関する記述を検討した。そのことによって、昭和初期において、組合に関する法制度がどのように農村で受容されていたのかを明らかにするのが目的である。
この小説が発表された当時は、全ての農民を産業組合に組み込んで管理・統制しようとする国家政策が取られようとしていた。すなわち、昭和7年、産業組合法が改正され、一般農民が所属する農事実行組合を産業組合の組合員として加入させることが認められるようになったのである。しかし、当時の東北地方では、経済恐慌や凶作などの影響によって、産業組合の運営が厳しい状況に置かれていた。「囚はれた大地」でも、産業組合の運営が不振に陥って、農民たちから利用されなくなっている状況が描かれている。したがって、小説に登場する農村においては、産業組合法改正が意図した通りに、農事実行組合が順調に組合員として産業組合に統合され、農民に対する国家統制が進んだとは見ることができない。
その一方、小説では、農民たちが、自らの利益を確保するために、農民組合を結成しようとする動きが描かれている。しかし、この動きは、地主層の妨害や官憲の弾圧を受けて、頓挫を余儀なくされるという悲劇的結末を迎えることになる。ただ、農民たちにとっては、農民組合の結成に代わる次善の策として、小作調停を利用するということも考えられたはずである。それにもかかわらず、小説では、これに関する記述はなく、あくまでも農民組合の結成の必要性が強調されるのである。しかし、当時、農民の中には、地主に対する遠慮などから、農民組合の結成に対して消極的な者も少なからずいた。平田の小説の中にも、そのことを記述した場面が見られる。したがって、その小説は、当時の農民たちの間で、農民組合に対して肯定的立場と否定的立場の両方があったことを示しているといえる。
その後、昭和10年代に入ると、産業組合による農民の統制が進み、農民にとって産業組合は大きな意味を持つようになる。これに対して、農民組合は、国家による圧力の下、その勢いを失っていくのである。したがって、平田の農民小説は、不況などによって産業組合が停滞していた時期から、産業組合による農民の統制が達成される時期までの間の過渡的状況を示したものと見ることができるのである。

・キーワード:農民文学、産業組合、農事実行組合、農民組合
役所と「地方」の間―清代モンゴルのオトグ族における社会構造と裁判実態
額定 其労

 清代のモンゴル(一六三五~一九一一)は、清朝が導入した「盟旗」という軍事行政組織によって統治されていた。しかし、盟旗組織下におけるモンゴルの諸地域社会には、地域的・歴史的特性が存在した。本論文は、一九世半ばから二〇世紀初頭までのオトグ旗に着目し、同旗の社会構造と同旗における裁判の実態を解明しようとするものである。
まず、オトグ旗の社会構造について、行政組織と身分秩序を中心に概観した。旗内ではザサグと旗衙門が権力の中心と、それ以外の旗内の領域は地方(「周辺」)と、それぞれ位置づけられていた。旗衙門には役人が交替制で勤務し、案件処理を含んだ日常行政を担っていた。地方にも役人が存在し、旗衙門から遠く隔たった地域の行政を処理していた。また、オトグ旗には「ジャルグチ」というモンゴル固有の役職も存在し、主に漢人に関わる業務を担当していた。これらの役人と並んで、地方では貴族の身分を持つタイジが平民に対して権勢を振るっていた。
次いで、裁判事例の分析を通して裁判の実態を記述した。すなわち離婚や家畜をめぐる争い、不法に拘束された事件、人命(自殺)に関わる案件を紹介し、分析した。これらの事例によれば、民事的性格の強い案件は地方で、刑事的性格の強い事案は旗衙門で処理される傾向にあった。ただし、民事的性格の強い案件は全てが公権力による裁判によって処理された訳ではなく、地方において仲裁や調停によって処理されることもあったことも指摘された。
第三に、旗衙門における裁判の流れについて記述したうえで、当時の裁判実務が孕んでいた問題点とそれに対する盟の対策について論じた。盟の対策においては、第一に、訴訟は現状のやり方と異なり、まず原告の所属する蘇木の蘇木章京に提起すべきものとされた。これによって蘇木章京→扎蘭章京→梅林章京→旗衙門(ザサグ)という軍事行政組織とその官僚序列を基盤とし、案件の難易度に応じて段階的に序列の下方から上方へと持ち送りがなされる裁判制度が整えられた。対策においては、第二に、地方にいる、裁判権を付与されていないタイジや役人による「私的な裁判」の禁止がなされた。
最後に、本論文で得られた知見をまとめたうえで、清代のオトグ旗の社会構造と裁判の実態が同時代のアラシャ旗やハラチン右翼旗の場合と比べてどの点で異なるのかについて略述した。

・キーワード:清代モンゴル、オトグ旗、社会構造、裁判
20世紀初頭ライタ川以西における「非弁護士」試論―オーストリア司法省文書を手がかりとして
上田 理恵子

 本稿の目的は、20世紀初頭オーストリア=ハンガリー二重君主国のうち、通称「オーストリア側」「ライタ川以西」と呼ばれる地域における「非弁護士」の法的サービス活動を、オーストリア帝国司法省文書の検討を通して、明らかにすることにある。
非弁護士とは、今日では資格なくして取引に関する書類、当事者を代理し、法律に関する情報を提供する者を意味し、そのような行為は裁判所や行政庁によって厳しく罰せられる。オーストリアでは、一九世紀に弁護士や公証人制度の近代化が進む過程で、暫定的な資格として、一八三三年司法局令により「公的代理業」制度が設置され、「法の定めにより、別に留保されていないすべての行為」を代行し、事務および情報提供のための事務所を開設することが認められていた。しかし、非弁護士取締に関する司法省令(一八五七年)、弁護士法(一八六八年)、公証人法(一八七一年)の成立、弁護士や公証人数の増加の後もなお、公的代理業の申請は君主国解体まで後を絶たなかった。
中央官庁への抗告案件に関わる司法省公文書の分析から、以下の二点が確認できた。第一に、申請者の経歴については、法学の中途退学者から宿屋経営者にいたるまで様々ながら、とりわけ退役軍人と退職官吏が多かった。申請者の多くは、たちの悪い「もぐり」弁護士というより、むしろ「地域の需要」に即しているように認められた。次に、官公庁の方針として、弁護士と公証人の職域確保を最優先課題とする。ただし、これらの職域を侵害しない限りにおいて、「地域の需要」を考慮して、申請を認める用意もあった。その好例として、第一次世界大戦に近接した時期と地域という背景事情からか、軍関係案件については「情報提供」業務に限って認可される事例が複数認められた。
結論として、非弁護士の存在は、ライタ川以西の地域に必要であったと確認できる。

・キーワード:非弁護士、公的代理業者、オーストリア司法省文書、弁護士、公証人、オーストリア=ハンガリー、ライタ以西地域

【シンポジウム】

「ヤマト政権=前方後円墳時代の国制とジェンダー
——考古学との協同による〈人的身分制的統合秩序〉の比較研究の試み——
水林 彪、広瀬 和雄、清家 章、大久保 徹也、義江 明子、籾山 明、田口 正樹

 本シンポジウムは、列島的規模において初めて政治的統一が果たされたヤマト政権=前方後円墳時代(3世紀〜6世紀)の国制とジェンダーの特質について、考古学者の協力を得つつ、比較国制史の観点から究明することを課題とした。国制史学と考古学との共同研究のはじめての試みであり、そのことによって、新しい歴史像を獲得することがめざされた。
広瀬和雄氏(日本考古学)は、これまでの文献史・考古学研究の通念とは異なる「前方後円墳国家」の全体像を提示した。①中央(後の畿内)が圧倒的に優位する体制であったこと、②しかし、その中央内部の権力構造は、複数の有力首長による共同統治であったことなどが論じられた。清家章氏(日本考古学)は、ご自身の最新の考古学研究をふまえて、古墳時代前期までは首長層の半数近くは女性であったことを論じ、「在地首長=男性」という根強く残るイメージを批判し、時代像を一新しようとされた。水林彪(比較国制史)は、広瀨・清家両報告に学びつつ、当該時代の国制史とジェンダー史の全体を刷新する方向を提示した。特に広瀨報告を敷衍して、ヤマト政権=前方後円墳時代の最初期(三世紀中葉から後半)および後期(五世紀末以降)を除けば、当時の国制を〈王政〉の概念で理解することは適切ではないこと、最初期における〈王政〉(卑弥呼政権)の成立には、中国(公孫氏および魏)の直接的介入を想定しなければならないことを論じた。
以上の三つの報告に対して、以下の四つのコメントがなされた。大久保徹也氏(日本考古学)は、水林が依拠した考古学説――(1)三世紀前半期に、ヤマトの纏向の地に首都が建設され、纏向型前方後円墳が全国的に展開したとする寺沢薫氏の学説、および、(2)前方後円墳時代前期・中期の中央の権力構造を、複数の有力首長の共同統治体制とする広瀨和雄氏の学説――を批判するという観点から、水林報告を批判した。義江明子氏(日本古代女性史)は、清家報告が古墳時代中期以降、首長層の男性化が顕著となるという認識を、文献史の側から批判し、男性化・父系化の決定的画期は律令制国家の成立にあるとした。籾山明氏(中国古代史)は、〈人的身分制的統合秩序〉の列島最初の形態であるヤマト政権=前方後円墳時代の国制の特質を比較国制史的に明らかにするために、その中国的形態の一つである周代封建制の特徴について論じた。田口正樹氏(ドイツ法制史)は、ドイツ法制史学の立場から、最近のドイツ学界における国制史研究の動向、考古学と歴史学の関係、ジェンダーと国制史との関係などについて論じられた。

・キーワード:ヤマト政権、前方後円墳、国制、ジェンダー、考古学