【論説】
平安期の死刑停止について
梅田 康夫
平安期において弘仁年間より保元の乱に至るまで、三百年以上にわたり正式な形で死刑が行なわれなかった。このことは古くから知られ、これまで各種の文献で取り上げられてきた。本稿ではまず前提となる問題として、死刑の廃止ではなく停止であること、そして停止の時期やその実態について確認した上で、そのような現象がもたらされた背景、原因について論じ、死刑停止の歴史的意義を究明せんとした。
これまで死刑停止の背景、原因については、様々なことが指摘されてきた。それらはいずれもその要因の一つであると考えられる。なかでもとりわけ怨霊の問題が最も重要視され、筆者自身もかつてそのように考えてきた。しかしながら、非業の死とは結びつかない犯行の明白な一般庶民による凶悪な犯罪についても死刑執行が宥恕される事例が存在することは、怨霊恐怖の点からだけでは十分に説明できない。また死刑が復活したことについてその理由等は従来あまり論じられず、それ以降も公家社会では死刑は基本的に忌避されていたとする見解さえ存在する。本稿では、死刑復活後は公家社会でも死刑が行なわれたということを前提として、死刑が復活した際における後白河天皇宣命案に関する分析等から穢れの問題を最も重視し、この問題を穢れを媒介として天皇と朝廷のあり方、王権の変容との関連から考察した。
保元の乱後に出された後白河天皇宣命案は、従来からも取り上げられてきた史料である。本稿では、乱の経緯とその後の処置について神前に報告するのが、死穢すなわち死の穢によって延滞したとある部分に特に注目した。死刑の執行によって、穢が重要な問題となっていたことがわかる。穢は九世紀半ば以降に制度化され、それは天皇が祭祀王として純化されていく過程と並行していた。天皇による死刑の裁可は死穢の忌避という点から次第に行われなくなり、また死刑の執行は觸穢による宮中・内裏への波及を防ぐ意味で回避されるようになった。
このようにして全く行なわれなくなった死刑が復活したのは、保元の乱という内乱の後であった。そこには単なる武家の台頭ということのみならず、朝廷と天皇をめぐる公家社会における大きな変化があった。祭祀王としての天皇の純化が完成した段階で院政という新たな政治形態が確立し、世俗王としての院=上皇が治天の君としての権力を行使することになった。そして、穢の観念が世俗化、希薄化し拡散していく中で、死刑への忌避感情もまたかつてのように厳格なものではなくなっていった。その結果、天皇の清浄性を保持しつつ、院=上皇による刑政への関与、死刑の裁可という途が開けていった。
死刑の停止は薬子の変、その復活は保元の乱という、いずれも上皇と天皇の対立、王権の分裂を契機に進行した。それは王権の変容過程の中で生起した、特殊な現象であったといえる。
・キーワード:平安期 死刑停止 怨霊 死穢 王権の変容
南京国民政府時期における刑事訴訟法改正と自訴制度
久保 茉莉子
一九三〇年代に国民政府が進めた刑事訴訟法の改正過程において、検察制度と「自訴」(被害者訴追)制度の整備は重要事項の一つとされていた。本稿は、自訴制度の運用状況を分析することで、南京国民政府時期における刑事訴訟法改正の背景を明らかにし、二〇世紀前半の中国において自訴制度が成立したことの意義を検討するものである。
清末民国期に整備された中国の検察制度は、強く批判されることもあったが、検察官たちは日々の刑事事件において重要な役割を果たす存在になっていた。しかし、民国期において、法律の知識を持たない大部分の人々は、依然として清代の伝統的な訴訟のあり方に慣れていた。そのため、当時の刑事事件では、事件関係者たちが、弁護士に助けられながら、頻繁に裁判所に訴状を提出していた。そうした人々の行為は、必ずしも適正手続を遵守していたわけではなかったが、訴訟を迅速に終結させ、秩序維持を図る上で有効であった。そこで、一九二〇年代以降、私人訴追制度が刑事手続の一環に組み込まれることとなる。その際、治外法権撤廃のため、立法に関与した官僚・法学者らは、近代西洋法、特にドイツ刑事訴訟法の訴追制度を参照した。当該時期における訴追制度をめぐる議論の影響を受け、一九三〇年代の中国における法制改革では、自訴制度の整備が重要事項となる。そして、一九三五年に制定された新たな刑事訴訟法において、中国独自の特徴を持つ自訴制度が成立した。それは、被害者の訴えを広く受け付け、近代西洋型の刑事訴訟法にもとづく訴訟を実施し、国家権力による秩序維持体制を強化するものであった。こうして、近代中国において、検察制度と被害者訴追制度を併存させる刑事訴訟法が成立することとなった。そこには、官と民が密接に関わりながら事件の解決を図るという前近代中国の訴訟社会のあり方も影響していると考えられる。
・キーワード:自訴制度 南京国民政府 刑事訴訟法 被害者訴追制度
一六五四年「帝国宮内法院令」の成立
鈴木 山海
本論文は、近世の神聖ローマ帝国が保持した二つの最高裁判所のうち、皇帝に直属する帝国宮内法院に着目することで、三十年戦争後における、領邦を越えた、帝国レベルでの秩序維持のあり方、とりわけ、そこにおいて発揮された皇帝の主導性を明らかにしようとするものである。
第二次世界大戦終結以降のドイツ国制史研究においては、近世の神聖ローマ帝国を、広域的な秩序維持の主体として再評価する潮流が現れ、現状においても、それは大まかなコンセンサスを得ているといえる。帝国の裁判制度に関する研究も、こうした文脈の中で発展してきた。近世の帝国には二つの最高裁判所が存在してきたが、主に帝国最高法院についての研究が進んできた。他方、帝国宮内法院には、長らく光が当てられてこなかった。皇帝の恣意によって運用される、カトリック偏重の裁判所であったと否定的に評価されたのである。だが近年、帝国等族によって主催される帝国最高法院と、皇帝に直属する帝国宮内法院とは、異なった性格をもちつつ相互補完的に共存してきたことが理解されつつある。したがって、帝国最高法院のみならず、帝国宮内法院をも精査しなければ、近世の帝国における裁判権のありようを理解することは不可能である。
冷戦終結以降、ドイツおよびオーストリアにおける研究の進展により、帝国宮内法院に関する新事実が次々と明らかになっており、それらは旧来の通説と大きく矛盾するものであった。それらはむしろ、帝国国制史研究の新潮流に合致するように見えるが、本論文では、そうした性急な評価は差し当たり留保して、かわりに、帝国宮内法院の基本規則である、一六五四年の「帝国宮内法院令」の成立の経緯、および内容の検討を行うことで、同法院の基本的な性格ならびに、そこにおける皇帝の主導性を明らかにした。
それによれば、皇帝は、三十年戦争の終結直後という状況のなか、帝国諸侯の内部での宗派対立を利用して、独断で一六五四年の「帝国宮内法院令」を公布した。彼は、自身の裁判権への制限を忌避するために、同法院における帝国等族からの干渉を、徹底的に排除した。そのうえで、自身およびその委任官の裁量権を極大化することをねらい、訴訟手続や、人事に関する詳細な規定は、意図的に行わなかった。しかしながら、そのことが、かえって帝国宮内法院の組織に柔軟性を与え、訴訟の効率性を高める要因となった。結果、第一に、帝国宮内法院は帝国住民の大多数によって選好され、近世ドイツにおける秩序の維持に資することとなり、第二に、それを主導した皇帝こそ、「平和の担い手」であるとの観念が、住民のあいだにますます浸透したと考えられるが、そうした仮説を検証するためには、まずは裁判実務に関する事例研究の積み重ねが必須である。
・キーワード:皇帝 帝国等族 帝国最高法院(Reichskammergericht) 帝国宮内法院(Reichshofrat) 帝国宮内法院令(一六五四年) ヴェストファーレン条約
【学会動向】東南アジア法史研究回顧
タイ法制史研究の状況
西澤 希久男
タイは、日本と同様に、アジアにおいて植民地とならなかった数少ない国の一つであり、また日本を含む列強との間に締結した不平等条約を改正するために、西洋法に基づく司法制度確立を求められるという歴史を有する。
上記のような歴史を有するタイにおける法制史研究の特徴としてあげることができるのは、第一に、法学者と大半が法制史に関心を有しておらず、法制史を専門とする法学研究者が非常に少ない。第二に、伝統法研究が「三印法典」研究に集中している。第三に、歴史学、社会学、政治学等の観点からの制度史研究が盛んである。最後に、タイの法学者が関心を有する分野は、西洋法に基づく法典編纂、司法制度構築の過程であり、当該分野は日本人研究者も感心を持っている。興味深いことに、民商法典の編纂に関して、ドイツ法の影響が強いことが投げ年主張されてきたが、近年フランス法を初め、その他外国法の影響も見られることが指摘されるようになり、この点についても日本と類似している。
・キーワード:条約改正、三印法典、公定史観、御雇外国人、モデル法
マレーシア法制史研究の状況
桑原 尚子
マレーシア法史は、マラッカ王国成立前、マラッカ王国時代、マラッカにおけるポルトガル植民地時代、マラッカにおけるオランダ植民地時代、英国植民地時代、独立後と時代区分されることが多い。近年の研究では、法史をいかなる視角から記述するかが自覚的に問われるようになっている。
本稿では、主に英語文献を中心に、マレーシア法史研究について研究課題及び研究視角の観点から整理することとする。研究課題として、マラッカ法典等のマレー法集成、アダット(慣習法)、イスラーム法、スルタン、イギリス法継受及びパーソナルローに焦点を当てる。研究視角については、東洋法と西洋法、多元的法体制、法と政治及び植民地法制の比較を取り上げ、代表的論者の主張を整理する。
・キーワード:法継受、イスラーム法、パーソナルロー、多元的法体制、リーガル・オリエンタリズム
インドネシア法制史研究の状況
島田 弦
本稿はインドネシア法制史に関する主要な研究について検討することを目的としている。そのために、本稿は、ヒストリオグラフィ、すなわち、歴史において何が起きたかよりも、どのように歴史が叙述されるかに着目するアプローチを用いることを試みる。
インドネシア法制史は、大きく前植民地期、植民地期および独立期に分類できる。前植民地期は、インドネシア領域においてアダット法と呼ばれる慣習法およびイスラーム法の原型を残した。17世紀に始まる植民地期は、ヨーロッパ近代法をこの地域にもたらした。しかし、植民地初期においては、インドネシア地域を支配したオランダ東インド会社は、現地の法に大きな関心を払わなかった。1830年に植民地収益を増加させるために、オランダは強制栽培制度を導入した。そして、オランダは強制栽培制度を運営するために慣習法に基づく伝統的権力を利用した。特に、ヨーロッパ人と原住民を区別し、人種ごとに異なった法体系を適用する政策は現在に至るまで影響を残している。1901年、オランダは原住民エリートに近代教育の機会を与えることを中心とする政策を導入した。オランダによる人種別植民地法政策は1943年の日本軍占領まで続いた。そして、インドネシアは1945年に独立を宣言した。独立後のインドネシアは、1998年まで権威主義体制として特徴付けられる。
インドネシア法制史研究の業績は、このような歴史をどのように叙述しているだろうか。本稿は、まず、それらの諸研究が取り扱っている法と歴史の範囲(インドネシア法制史の通史であるのか、特定の法分野に特化しているのか)を概観し、その上で、インドネシア法制史研究の方法論とその目的を検討する。
方法論については、三つの方法論を論じた。第一は、実定法および法制度の歴史的変遷を記述する方法論である。現在のインドネシア法はオランダ法の伝統に属しているため、この方法論をとる業績のほとんどは、その記述を植民地期から始めている。第二の方法論は、植民地政策の反射として法制度を考察するものである。バーンズはオランダ経済政策と学問上の論争が植民地法政策に影響を与えたかを論じている。最後は、インドネシア社会の変容と法制度の関係を論じる方法、いわゆるソシオ・リーガル・スタディである。レブはこのソシオ・リーガル・スタディの方法論で最も影響力のあるインドネシア法研究者である。
インドネシア法制史の目的、換言すれば「なぜ、その歴史を語るのか?」について、本稿は、インドネシア法制史研究の諸業績は三つのタイプに分類できると論じる。第一は、インドネシア民族主義を根拠づけるためである。第二は、現在のインドネシア法制度の問題点、特に脆弱な司法制度の原因を突き止めようとするためである。そして第三は、権威主義体制において反対者を抑圧するために政府が利用してきた「インドネシア的なるもの」というイメージを批判するためである。
・キーワード:インドネシア法、法制史、ソシオ・リーガル・スタディ、植民地法
【シンポジウム】法制史研究の新しい方法
田口 正樹 江 玉林 桑原 朝子 マルティン・アヴェナリウス
本シンポジウムは、法制史研究についてのいくつかの新しいアプローチを取り上げて、その可能性を探っている。江玉林は、主に陳澄波の絵画を扱って、それらから日本統治下および一九四五年以後の台湾における法状況と法意識を読み取ろうと試みている。桑原朝子は、近松門左衛門の作品『博多小女郎波枕』の検討を通じて、近世日本の社会構造と法に関する見方を提示する。マルティン・アヴェナリウスは、一九世紀ロシアにおけるローマ法継受を考察し、アウトサイダーの視点がローマ法の隠れた性格を明るみに出すという可能性について論じている。シンポジウムにおける講演に対しては、五十殿利治、黒石陽子、平田雅博の三氏がコメントを加えている。
・キーワード:法図像学 法と文学 グローバル・リーガル・ヒストリー 方法論