法制史研究 64号(2014年)和文要旨

【論説】

明治前期の監獄における規律の導入と展開
児玉 圭司

 本稿は、明治前期における監獄制度の展開を、受刑者に対する規律という観点から捉えようと試みるものである。
 本稿ではまず、日本における死刑の不可視化と、身体刑から自由刑への完全な切り替えが、いずれも一八八二年の旧刑法施行によって達成されたことを明らかにした。
 監獄の規律に関する最初の変化は、一八七三年以降にあらわれる。その内容は、以前と比べて、受刑者の生活や行動に関するルールが厳格化されるというものであった。これは、自由刑の採用によって受刑者が急増したこと、およびそれにともなって彼らを管理・統制する必要が生じたことによるものである。
 一八七六年以降、東京警視庁や内務省による主導のもと、各地の監獄において、受刑者をその習熟度に合わせて教育し、あるいは服役態度を評価するといった統治技術が新たに導入されている。その背景には、西洋の法制度に関する知識の流入と、これによって生じた改革機運があった。
 その後、一八八二年になると、監獄制度の設計者は、監獄の目的は受刑者を「良民」に作りかえることにあると理解するようになる。そして彼らは、規律への順応に応じた優遇措置など、受刑者の内面に働きかけるさまざまな統治技術を、法制度の中に組み込んだのである。
 しかし、少なくとも一八八七年にいたるまで、監獄行政の現場では、過酷な労働を科すなど、肉体的苦痛を与えて懲らしめることによってこそ受刑者の改善がもたらされるとの主張が根強く、先に記した統治技術は十分に活用されるにはいたらなかった。その背景には、国家が受刑者の労働力を求めていたという実情や、当時流行していた、刑罰に対する復古的な思潮が影響を与えていたものと考えられる。


ローマ帝政後期の弁護人における「年功」の意義
粟辻  悠

 ローマ帝政後期の弁護人に対する国家的統制として、法廷の弁護人団体collegium advocatorumにおける年功序列制度が学説上重要視されてきた(そこには、「強制国家」概念との関わりも見られる)。その根拠として通説的にCJ 2.7.26-27が挙げられてきた(Jones, Kaser/Hackl)が、最近他の史料に基づき年功序列を否定する反対説も提起されている(Humfress)。本稿の目的は、この学説上の対立の実質を各史料の再検討に基づいて分析した上で、さらに他の史料をも検討の対象に加えることで、ローマ帝政後期の弁護人における年功の意義をより精確に解明することである。
 本稿におけるCJ 2.7.26-27の分析によれば、それらの法文は通説的に主張されてきたような年功序列制度を導く根拠となるものではなく、特定の上級法廷で勤めあげた弁護人に対して年功順に法定の特典を与えることを定め、それに反する取引的な順位の交換を禁止したものであった。また他方でHumfressの引用する史料も、以上の具体的に限定された規制内容とは矛盾するものでなく、弁護人に対する一般的な評価の基準としては年功よりもむしろ能力が重要な要素であった、という認識を述べたものと理解される。両説の間に本質的な対立はなく、弁護人の年功について以上のように異なる二つの側面からそれぞれ考察を加えたものに過ぎないと考えられる。
 弁護人に法定の特典を与える順位としての年功と、弁護人への一般的な評価基準としての年功というこれら二つの側面については、それぞれ他の史料によってさらに検討を深めることができる。前者の側面については、帝国西部において下級法廷の弁護人に年功順で上級法廷への移籍を許した法文の存在がとりわけ注目される。弁護人に法定の特典を与える際に年功を重視するという発想の共通性が、下級法廷の規制においても見て取れるからである。次に後者の側面については、法文においてもそれ以外の史料においても、年功という要素が能力や功績meritumといった要素と対立するものではなく、弁護人への評価にとって重要な意味を持っていたことが明らかとなった。短期間で交代する帝政後期の裁判担当者にとって、所属法廷で長年活動して名声を得た弁護人を活用するということが、紛争解決において重大な意義を有したものと考えられる。またさらに進んで、年功が弁護人に対する一般的な評価基準として重要であったというその側面が、弁護人に特典を与える制度における年功の重視を実質的に正当化した、という両側面の関係も推測されうる。
 上記の具体的検討においては、弁護人における年功の意義と官吏(とりわけmilitia)や兵士における年功の意義の類似が随所に現れていることも重要であるが、それに関する研究は未だ進展しておらず、官吏に関する近年の新たな研究成果も取り入れた詳細な検討が今後の重要な課題である。国家からの俸給の有無を始めとして、弁護人と官吏や兵士との間には大きな差異も存在するため、その比較対照には一層精密な検討を要しよう。


 ・キーワード:帝政後期、弁護人、法廷、collegium advocatorum、年功、特権、弁護人の評価、meritummilitia



ハルミスカラとカロリング時代の俗人エリート
木下 憲治

 近年初期・中期中世国制史研究において、儀礼や象徴的コミュニケーションに関連した研究が多数なされている。その第一人者はG・アルトホフである。しかし、彼らのグループは、カロリング期のハルミスカラにはほとんど関心を示してこなかった。本論文は、カロリング期のハルミスカラの意義を解明するためにカロリング期のハルミスカラに関連するカピトゥラリアと先行研究が扱わなかった史料を分析したものである。J.M.メグランは、ハルミスカラと公的贖罪には関連性があると示唆していた。また、彼は公的贖罪とは神の復讐であるという仮説を提起しており、ハルミスカラにおいても公的贖罪においても被害者の復讐の側面を強調していた。最近のM・デヨングとC・M・ブッカーのルイ敬虔帝の贖罪と国王官職概念についての研究を参照することによって、829年のハルミスカラに対してはメグランの仮説の正当性を裏付けることができた。しかし、853年以降のハルミスカラは、その意味の重点を変えていった。すなわち、ハルミスカラは、「神の復讐」という側面を希薄にし、鞍運びという儀礼的な行為と引き替えに、非行を犯した者を国王支配へと再統合する側面があった。また、カロリング期のハルミスカラにおいては、国王支配へと再統合される人物は、貧しい自由人ではなく、政治指導層から従軍義務が「免除されない」階層にまで及んでいた。後期カロリング朝の国王は、ハルミスカラによって中間層までをも再統合によって再び王国の秩序に組み込む必要に迫られていたのである。本稿の結論は、M・イネスが明らかにしたような局地的エリートとの連携及び彼らとの互酬性によって王国を支配する必要に迫られたカロリング王権の姿と密接に関連している。


【学会動向】

日本中世都市史と法
高谷 知佳

 自由都市論克服以降、多くの地域や時代の都市論において、法や制度のみならず、文化や情報など多様な特徴が「都市性」とみなされ、着目されるようになった。しかし一方で、改めて「都市はなぜ都市であるのか」という問い、都市に不可欠な特徴としての「都市性」を求める問いも浮かび上がっている。こうした研究状況の中で、都市における法や制度はいかに位置づけられるべきか。
 日本中世史の研究動向を振り返ると、第一に、法や制度については、行政的な都市・農村の区分がなく、領域的に規律する都市法も少なく、特に京都や畿内先進地域にはほとんどないため、研究も少ない。第二に、網野善彦氏の「都市的な場」論とその後のブームがあるが、京都をはじめ、多様な利害の錯雑する大規模な都市についての研究は立ち遅れた。第三に、中近世移行期の町共同体の研究、さらに遡って中世の多様なネットワークの研究があるが、共同体やネットワークによっては解決しきれない問題に対する都市全体の権力についての研究はみられない。第四に、京都については、政治史の観点から、首都に一極集中した政治・法制・経済・文化のあり方について研究が深まったが、都市史との有機的関連が薄い。また、これらの動向のほとんどに共通して、中世前期と後期の連続した研究が少ない。
 こうした研究を踏まえて、われわれが取り組まなければならないのは、多様な利害が交錯し共同体やネットワークをも越えるような紛争解決や危機管理についての研究である。これらは、都市のもっとも本質的な特徴であり、かつ都市が大規模になればなるほどに問題となる。そしてこうした問題にこそ、法や制度が深くかかわる。
 日本中世都市においてこの問題に取り組む一つの方向性として、本論では都市の紛争解決の多面的な分析を提示したい。裁判やネットワークへのアクセサビリティ、用いられる法や先例の実態、徳政令や関所など領域的支配との関係、時代を経た変化などを分析することによって、「都市性」の普遍性と多様性を明らかにしたいと考える。



モンゴル法制史研究動向
萩原 守  額定 其労

 故島田正郎氏が切り開いた北アジア法史という研究分野の内、モンゴル法制史は、欧米、日本、モンゴル、中国領の内モンゴル等各地で、現在最も盛んに研究の行われている分野である。この研究動向の原稿では、モンゴル法制史の主要な諸研究を「通史的研究」、「モンゴル帝国期」、「北元時代」、「清代のモンゴル」、「一九一一年以降のモンゴル」という五章に分けて紹介・論評していく。
 まず「通史的研究」としては、ロシアのリャザノフスキー氏がモンゴル法制史を初めて通史にまとめ、大きな功績を残したが、彼自身は現地語で書かれた法制史料を自ら読解しておらず、既にその研究上の価値は決して高くない。一方、上記の島田氏は漢文法制史料を精査し、特に清朝治下での蒙古例の全体像を解明した功績が光るにもかかわらず、満蒙文史料や欧文の研究を参照する事がなかったため、欧米での研究とすれ違いに終わり、残念ながら知名度が低い。
 「モンゴル帝国期」については、チンギスハーンの定めた法典『大ヤサ』が、成文法として本当に存在していたのかどうかが、最近の焦点となっている。「北元時代」に関しては、いくつもの蒙文法典原本が文献学的に研究されているが、法制史的研究がなされているのは、『ハルハジロム』のみである。「清代のモンゴル」については、ロシア人の始めた研究を日本人、内外モンゴルのモンゴル人、欧米人の研究者たちが受け継いで、蒙古例法典、裁判制度ともに、盛んに研究が発表され、日進月歩の状態である。「一九一一年以降のモンゴル」に関しては、内外モンゴルの研究者を中心に研究が始まってはいるが、なお、盛んとは言えない状況である。
 今後は、各時代とも、文献学的な研究に加えて、より法学的特徴を持つ研究が求められるであろう。


リュケァトのサヴィニ研究について
守矢 健一

 ヨアヒム=リュケァトは、かれが教授資格取得論文(1984年)を公刊して以来、サヴィニ研究の主導者と目されている。本論文の目的は、『サヴィニ研究』(2011年)に所収された、サヴィニのテクストを巡るかれの研究を紹介することにある。これを4つの段階に分けて行う。
 第一は、ドイツと日本とのサヴィニ研究が1960年代以来、一種の並行関係にあることの指摘である。この指摘を、ドイツについてガグネアとリュケァトにより、日本について磯村哲と石部雅亮により例解する。サヴィニ研究と政治的現代の認識とが両国の研究において、緊張を孕む関連に立っていることが示される。
 第二に、ごく簡単に、リュケァトの教授資格取得論文を紹介する。2011年に編まれた論集に収められた諸論文において、教授資格取得論文では簡単に触れられたにとどまる論点がしばしば詳述されているからである。「客観的イデアリスムス」のテーゼによって広く知られるに至ったこの大作において既に、リュケァトにおける、サヴィニのテクストを歴史的文脈のなかに位置づける試みの徹底が、20世紀初頭以来戦後に至るまでのドイツ法学の、形而上学に彩られた言説に対する批判でもあることが、はっきりとわかる。
 第三に、一本の論文を例外として、教授資格取得論文公表後に公表された諸論文を、大体において公表年順に紹介するが、その際に、さまざまの論点の関連を明らかにすることに意を用いた。サヴィニ研究における現代史的観点がより深められたこと、サヴィニのテクストを歴史的脈絡から解明する試みが進んだこと、が示される。
 第四に、リュケァトのサヴィニ研究における、重点の移動に触れておいた。20世紀末以降の研究において、リュケァトは、サヴィニにおける法の体系的思考を、サヴィニの哲学的傾向と相対的に切り離したうえで、これを今日における知的挑戦として、ラーレンツやカナーリスによる、最終的に法の外にある要素に依拠した法の体系化の試みを一方に、そしてその後の法体系そのものに対する関心の低下を他方に配置し、この両者との関係で擁護するに至る。これはわれわれを多少驚かせる。しかしこれをリュケァトにおける形而上学批判の矛先の鈍化と理解すべきではなく、ましてサヴィニ擁護と即断すべきではない。むしろ、穏当な限りにおける法の自律の可能性を示そうという試みの一環と捉えられる。


 ・キーワード:サヴィニ、観念史、法学、現代史、私法



ナチス法研究の新動向――「経済法」研究および司法史研究の展開を中心に
松本 尚子

 本稿は、ドイツにおけるナチス法研究の最近の動向を紹介し、その特徴と課題を整理することによって、日本の戦時法研究への示唆を提示しようとするものである。その内容は、「経済法」研究と司法史研究に分けられる。前者は、冷戦終了とこれに起因する新しい史料の発見を背景に、独裁制の国際比較研究という枠組み(「独裁のヨーロッパ」プロジェクト)のなかで進められた。そこには、ヒトラー独裁を強制経済と理解する従来の理解に対して、「統制された市場経済」という概念を提唱する最近の経済史研究の影響がみとめられる。また、ナチス期中盤以降さかんに公布された個別命令をも研究対象とする点が、ナチス初期の立法や法理論を論じた従来の研究と異なるところである。
 後者の司法研究においては、従来のナチス司法研究が扱わなかった戦時司法―なかでもとりわけ下級審の裁判実務―をとりあげたケルン大学のプロジェクトが注目される。歴史学と法史学の共同研究として、最近の戦争体験史や加害者研究の成果をふまえ、日常史の手法を採り入れた社会史・文化史的研究が発表されてきている。こうした新しい動向には、日本の戦時研究が参考にできる点が少なくないと思われる。