法制史研究 59号(2009年)和文要旨

【論説】

三国魏文帝の法制改革と妖言罪の弾圧――古代中国法の一分岐点
石岡 浩

 本稿は、三国時代の魏の文帝(曹丕)と法術官僚の高柔が議論した「妖謗賞告之法」の改定に関する資料を手がかりに、中国古代における「誹謗」罪と「妖言」罪の歴史的意味、および魏の文帝の制度改革とその目的を明らかにする。
 後漢の献帝から禅譲を受けて、文帝が魏王朝を開いたその初年、民間に「誹謗」「妖言」が相次ぐ情況があった。文帝はそれらを死刑に処して、告発者に褒賞を与えていた。それを諫めた高柔は、「誹謗」や「妖言」の告発に褒賞を与える法の廃止を進言する。旧後漢官吏たちの王朝に対する諫言を汲み取り、それを誣告する悪質な魏の官吏を排除せんとしたからである。
 ところが文帝は「誹謗」の告発奨励のみ廃止して、「妖言」の処罰は撤回しなかった。それは「妖言」が「謀反」「大逆」に等しく、王朝の滅亡や禅譲を促す要素が含まれていたからである。
 かつての秦王朝の「妖言」罪は、神仙思想を説く方術の士が図讖を利用して、王朝の滅亡を予言した発言からなる。また前漢王朝の「妖言」罪は、儒家が讖緯説に則って国家の吉凶を予言した言説からなる。
 ところが前漢・後漢交代期に、王莽と光武帝が讖緯説によって皇帝に即位したあと、讖緯説は王朝の正統性を証明する重要な理論となった。そのため後漢時代には、皇帝の簒奪を狙う諸侯王が讖緯説を利用して現皇帝を批判する言説を「妖言」罪として、その処罰をかつてないほど厳重にしていた。それゆえ三国魏の文帝は、自身が讖緯説によって皇帝に即位したあと、旧後漢官吏たちが讖緯説を挙げて、他の諸侯王が皇帝に相応しいと述べる「妖言」を憎み、それを厳格に死刑に処したのである。ついで文帝は、「謀反大逆」罪の告発を奨励する詔を出し、さらに皇后の外戚が政治に関与することを厳禁する詔も出す。 これら文帝の三つの改革の分岐点となった──諸侯王を擁立する「妖言」の弾圧、「謀反大逆」の告発の奨励、外戚の政治参加の禁止──は、王朝の簒奪を促す要素を排除する目的をもつ。これらは魏晋時代の法に継承されて、伝統中国法の発達・展開の初期の分岐点となった。

 ・キーワード 三国志、誹謗、妖言、曹丕、高柔


【叢説】

日本古代神祇祭祀法における「法意識」についての基礎的考察――大宝神祇令から延喜神祇式へ
榎村 寛之

 本稿は律令国家の初期段階における神祇祭祀法について、社会に対する法の効能と社会における法の受け取られについて考察するものである。
 国家的な祭祀とは、習俗ではなく、国家の形成過程における重要な「政治」であった。七世紀後期の日本社会においては、祭祀は税の体系を維持するほどの効力があった反面、全国的な統制は未成立だった。日本最初の総合的な法典である、「大宝律令」のうち「神祇令」は、「慣習としての祭祀」を「イデオロギー統制」に転化させる側面を持ち、祭祀に縛られた未開社会から社会が祭祀を規制し、国家が統制する文明社会への転機に出現した法といえる。しかしながら、社会体制の異なる唐の祠令から継授したという側面があるので、その内容には極めて不完全な部分が残されていたことが近年の研究により明らかにされている。
 神祇令の目的は、多様な神から、「神祇」と呼ばれる神を抽出することである。神祇とは、天神地祇のことで、「天皇中心の国家秩序を確認するために有効な神」であり、その基盤イデオロギーは天孫降臨であったと見られる。祠令が、中国の伝統的祭祀すべての規定を意識しているのに対し、神祇令は「未定型の祭祀を神祇官の下に法として整理する」ための法だということができる。神祇令は神を定義する法なのである。ところが、国家的注釈書である『令義解』では、神祇令の注解は、天神地祇の定義をしていないことをはじめ、総体に些末な語義の注釈に留まり、法の観念性やその実効性についての議論には至っていない。これが九世紀前半の律令法の理解の実態であった。
 神祇法を支える意識に大きな転換が見られるのは、一〇世紀に法細則を集成した『延喜式』の「神祇式」である。神祇式の条文からは、唐の祠令を読み込み、その解釈を日本社会に適合させようとする努力が読み取れる。例えば、国家的祭祀のシンボルである伊勢神宮は、八世紀末の政治改革によってその統制が強められ、国家的な位置づけが明確になるが、神祇式はその意識の下で書かれている。また、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇族女性である斎王は、神祇令には定義されなかったが、神祇式では、天皇の命令で置かれることが明記されている。天皇祭祀の存在を前提にした事務規定に過ぎなかった神祇令とは違い、神祇式は、王権祭祀の内容にまで踏み込んで規定した法なのである。
 すなわち、延喜神祇式は単なる神祇令の細則ではなく、天皇の祭祀を含め、祭祀全般を法で規制することに一部成功した、画期的な法だといえる。
 神祇式によって、天皇の責任下でシステム化された国家祭祀体制が確立された。すなわち、地域に定着した「神祇」意識と国家祭祀の方向性がようやく連動し、共通した神意識の形成が形成される道筋ができた。それは「神祇令」という「理念的な統治法」が「神祇式」という「実効性のある行政法」へ転換したことを意味するのである。

  ・キーワード 王権祭祀の規制、王権に関わる神の定義、神祇令、神祇式、伊勢神宮、斎王


明治初期における「司法」の形成に関する一考察――江藤新平の司法台構想とその典拠にみる議論の諸契機
山口 亮介

 従来の研究は、明治四年七月の司法省の設置に至る過程を、主に江藤新平の制度改革構想のみに着目して検討してきた。またこれらの研究は、「司法」をめぐる江藤の膨大な制度構想をそれぞれの要素ごとに散発的に考察する一方で、個々の制度案ごとの段階的な展開を政治過程論の文脈において検討してきた。
 これに対し本稿は、それまでに明確な理論や制度において存在していなかった「司法」なるものが当時どのように把握されえたか、という観点から江藤の構想を位置づけることを試みる。このために司法省成立に至るまでの江藤新平の諸制度構想の展開過程を時系列的に検討し、これと平行しながら段階ごとに形成される構想において直接・間接に関連したと考えられるテキストあるいはその背景をなした法・制度をめぐる情報について考察を行う。
 こうした視角から江藤の制度構想をみていくと、「司法」を問題とするにあたって大きく「三権」の中の一端として「司法」の観念を捉える段階、この観念に対応する機関として司法台や裁判所を読み込みつつ地方諸機関に対しても等級的な裁判所の設置を企図する段階、そしてこれらを踏まえつつも最終的に現行の刑部省の枠組みに近い形で収斂してゆく段階が確認できる。そしてそうした構想を策定するに当たっては、たとえば合衆国憲法を基礎とした「政体書」官制における「司法之権」を含む三権の内容をさらに具体的に窺い知ることのできる『泰西国法論』をはじめとしたオランダ国法学に関するテキスト等の参照が見られる。また同時に、現行の律令太政官制に由来する官制に対する知識を受容することのできる背景があったということが確認できる。
 このように、当時において「司法」をめぐってなされた構想は、その観念枠組みから具体的な制度に至るまで、その都度に諸々の典拠を道標としながら、同時に既存の制度に対する理解をも踏まえつつ形成されてゆく重層的な知識構造を有していたのである。

 ・キーワード 司法、三権、江藤新平、制度形成、典拠


近代日本の公益事業規制――市町村ガス報償契約の法史学的考察
小石川 裕介

 本稿は、近代日本の公益事業において締結されていた報償契約中、特にガス事業における当該契約の法史的意義とその背景についてを明らかにするものである。
 報償契約とは、市町村が管理する営造物の使用を許可する対価として、事業者が納付金を納めることを約する双務的契約である。通常、これに付随して、事業者には、事業の独占の保障などの諸特権の付与と、市町村の監督に服するという諸義務が賦課されることが多かった。実質的に、市町村による事業規制が行われていたのである。
 先行研究においては、当該契約の端緒である大阪市と大阪瓦斯の報償契約における指摘に留まるのみであり、その全体像に迫るものはなかった。これに対して本稿は、特に東京市と東京瓦斯の報償契約について成立過程からその運用までを丹念に追った結果、以下のことを明らかにした。
 ガス報償契約は、先行研究が述べるように公営事業の代替としてがその動機の主ではあった。しかし、特別税から報償契約へ移行を指示する、大蔵省による通牒も確認された。これは契約という形式を利用することによって、市町村による財政政策に柔軟性を与えるものであった。また、東京・大阪両ガスの両契約に関して、契約締結の正当性の点から、報償契約の公益事業規制的側面が強調された。報償契約は、あくまで両当事者の合意に基づくものであったため、独占状態にあるとき、公益性の強調は、契約の締結を進める上で必要不可欠なものであった。
 ガス報償契約は以上の要素を全て同時に備えるために、事業法が未制定の間、過渡的で代替的ではあったが有効に機能した。法的性質があいまいであったため、それが利便的に活用されたからである。しかし、これは同時に法的不安定性の問題であり、これが一九二三年の瓦斯事業法の成立へとつながった。

 ・キーワード 公益事業、ガス事業、報償契約、特別税、市町村、道路法


唐律共犯概念再考――大陸法的な理解から英米法的な理解へと視点をかえて
陶安 あんど

 本稿は、秦漢律及び英米法系における共犯の扱いを参照して唐律の共犯概念を再考するものである。以前戴炎輝氏と滋賀秀三氏の間で唐律の共犯を巡って争われた論争においては、主として教唆犯について意見が分かれていたが、戴炎輝氏が、通常の共犯と区別して、「教令犯」という犯罪類型が立てられ、被教唆者の犯罪行為の法定刑がそのまま教唆者にも科せられるとしたのに対して、滋賀秀三氏は、教唆行為が多くの場合共犯の「造意」もしくは「随従」に該当し、通常の共犯規定にしたがって処罰されると主張した。再考の結果、唐律において、秦漢律と同様に、教唆に関する一般原則が存在せず、もっぱら個別的な特別規定によってその可罰性が構築されていたこと、唐律の共犯規定にいう「共に罪を犯す者」が原則として実行行為に関わった者を指し、ひいてはその下位区分である「造意者」と「随従者」にも、通常教唆犯が含まれないこと、最後に戴炎輝氏と滋賀秀三氏の説がともに大陸法的な共犯概念に強く影響され、より実践的な概念区分を用いる英米法系の共犯概念への参照がむしろ旧中国における共犯概念の理解を助ける参考材料となることが判明した。

 ・キーワード 共犯、比較法、唐律、造意、拡張的正犯概念


イングランドの裁判官と裁判―― 一一七六〜一三〇七年
ポール・ブランド

 本稿は、コモン・ロー成立期の国王裁判所における裁判官の活動について、残存する最終和解文書(final concords)、訴訟記録集(plea rolls)、ロー・レポーツ(law reports)等の史料の意義と限界を明らかにしつつ、史料的に何が判明し、また何が不明であるかを検討したものである。主要な論点は以下の通りである。@個々の裁判官は、必ずしも全開廷期間を通して任命された裁判所に実際にいたとは限らない。A複数の裁判官によって構成される裁判所においては、いくつかの裁判官集団の間で業務の分担がなされており、また年長の書記が補助的業務を行なっていた。さらに、困難な事件の場合には、他の国王裁判所から仲間の応援を求めることもあった。B訴訟手続の進行においては、裁判官ではなくむしろ訴訟当事者が主導権を握る場合もあった。C訴答段階において、裁判官が真摯な取組をし、あるいは積極的に訴訟指揮をしていた例が存在する。D陪審に対する予備的な説示あるいは評決後の陪審に対する質問からは、証明段階(陪審審理)においても裁判官が積極的な役割を演じていたことが判明する。E最終判決は単独裁判官によって下されているが、それに先立って裁判官仲間の間で非公式な協議がどの程度行なわれていたかは不明である。F法廷用語であるロー・フレンチの使用はおそらくヘンリ二世期まで遡る。Gラテン語で書かれた正式の記録である訴訟記録集は、個々の裁判官ごとに作成されていた。H裁判官が当事者間での紛争の平和的解決(和解)に向けて努力している例が存在する。I裁判官は、法教育においても一定の役割を演じており、また立法に関与する場合もあった。

 ・キーワード コモン・ロー、国王裁判所、国王裁判官、陪審審理、法曹


【学界動向】

EU拡大とヨーロッパ都市法研究――ザクセン・マクデブルク法研究を例として
佐藤 団

 本稿は、近年ドイツをはじめ中・東欧各国で注目を集めているマクデブルク都市法に関する最新の研究動向の紹介である。まず、マクデブルク法の概要を示し、次に同法が如何にして中・東欧と関係を有するようになったのかを跡付けたうえで、一九世紀から現在に至る研究史を概観している。論述にあたって重点を置くのは、マクデブルク法の東方への伝播において特に重要な役割を果たした諸地域を擁するポーランドとドイツの関係である。
 研究史を振り返るとき、第一次大戦終結から第二次大戦終結までの時期をマクデブルク法研究の第一の隆盛期と位置づけることができる。しかし、終戦後、かつてのマクデブルク法圏に位置する国々において研究は個別に営まれ、学問的対話がほとんど行われない状態が続いた。その後、七〇年代からドイツとポーランドでの学問的対話が再開され、そうした動きが下地となり、九〇年代のドイツ統一を期に、ドイツ国内での研究も活発さを取り戻すようになった。さらに、二〇〇四年のEU拡大は、この流れを一層加速させるものとなった。
 今日、マクデブルク法研究は、マクデブルク法の伝播先の各国、諸研究機関の連携により、国際的な協力関係のもとに進められている。また、歴史補助学や文献学を含む他の隣接諸分野との学際的な研究は、史料基盤をますます充実させ、研究を一層深化させている。マクデブルク法研究の最新の動向は、このような国際的な研究協力の進展と学際化によって特徴づけられる。

 ・キーワード 中世都市法、マクデブルク都市法、ザクセンシュピーゲル、ザクセン・マクデブルク法、中・東欧