法制史研究 58号(2008年)和文要旨

【論説】

シャイバーニー『アスル』編纂過程 ― カイロ写本「賃約の書」の分析から
柳橋 博之

 カルダーによれば、九世紀の法学テキストが一般にそうであったように、現在我々が目にするような『アスル』のテキストは、最初に弟子が師の言葉を書き取り、それにたいしてその弟子自身またはそれ以後の編纂者が次々と加筆、修正、並べ替えなどの編集を積み重ねる過程を経て確定され、シャイバーニーの著作とされた。ハッラークも、法源学の著作を資料として用いて、九世紀末までの法学者は、「導出」によって学祖の説から二次的に導き出した説を、学祖の説と識別不能な形でテキスト中に取り込んだとしている。しかし両者とも、用いている資料に由来する制約から、そのような著述の方法がいつどのようにして始まったのかについては述べていない。
 本稿は、その過程を、カイロ写本、シャイバーニー(八〇五年没)『アスル』「賃約の書」を分析することによって推察する試みである。この写本の一部は、これまでに刊本になっている最終版『アスル』が成立する前の編纂段階を反映している点で、その編纂過程を知る上で有益な情報をもたらしてくれる。その分析の結果、つぎのような結論を得た。
  1. 原『アスル』は、シャイバーニーの口述である。 
  2. そのつぎの段階――編纂の前期――では、原『アスル』を補足・敷衍する形で設例が付け加えられるが、テキストとしては原『アスル』とは切り離された形で作成された。
  3. 最終段階――編纂の後期――では、テキストの混交が行われ、シャイバーニー以降に作成されたテキストが原『アスル』に埋め込まれている。
 このように、『アスル』の前期の編纂段階においては新しいテキストは古いテキストとは別個に作成され、また異なる文体が用いられたが、それ以降の編纂段階においてテキストの統一ないし混交が行われ、校訂本の多くの書に見られるようなテキストが確立したのである。このことは、前期の編纂者が学祖の説とそれ以降の学説を区別しようとしていたのにたいして、後期の編纂者には、学祖の説とそこから「導出」によって導かれる学説を全体として一つの体系――つまりはハナフィー派学説――とみなす傾向が見られると解することができよう。

 ・キーワード イスラーム法、ハナフィー派、シャイバーニー、『アスル』、法学書、賃約


【叢説】

一九二〇年代における行政裁判制度改革構想の意義 ― 臨時法制審議会における行政裁判所の役割を手掛かりにして
小野 博司

 本稿の目的は、昭和三年の行政裁判法改正綱領の歴史的意義およびその策定に対する行政裁判所の役割を明らかにすることである。
 日本における行政裁判制度の歴史を取扱った従来の研究のほとんどは、明治国家システムにおける行政裁判の特徴の解明を目指して、明治二三年の行政裁判法の制定過程に関心を集中されてきた。そしてまた、こうした先行研究の多くは、戦前と戦後の行政裁判制度の違いを前提にして、行政裁判所を「過去の遺物」と捉え、その内部実態を本格的に分析することはなかったのである。
 これに対し、本稿は、第二次世界大戦後の行政訴訟法制の制定にあたって昭和七年の行政訴訟法案が基礎資料として重要視され、そして一部は法制に取り入れられた事実を重視して、この行政訴訟法案の基礎である昭和三年の行政裁判法改正綱領の内容および歴史的意義を明らかにすることで、行政訴訟制度史研究に新たな地平を開拓することを目指した。また、行政裁判法改正綱領の策定にあたって行政裁判所が主導的な役割を果たしている点に注目し、行政裁判所においてそのような改革構想が生み出されてくる背景に自己の政治的影響力の増大という目的があることを明らかにした。
 その結果、従来の研究では、単に行政活動の法的正当性を担保するだけの機関であると考えられてきた行政裁判所が、実は、他の行政機関からの独立を強く求めており、改革構想もそういった動きのなかで作りだされたことを明らかにしたのである。幸いにも、この行政裁判所の改革構想は政治体制の民主化を求める国民から支持され、さらに弁護士や法学者の協力を得て、行政裁判法改正綱領の完成に至ったのである。しかしながら、国民の権利救済と行政統制を内容とする行政裁判法改正綱領は、内務省が計画した新たな国民統合政策(普選・治安維持法体制)の実現にとって障碍になるものと考えられたために行政官僚たちの強い抵抗に遭い、挫折してしまったのであった。

 ・キーワード 行政裁判法、行政裁判所、行政裁判制度改革、臨時法制審議会、行政裁判法改正綱領


日唐営繕令の構造と特質
十川 陽一

 本稿は造営関係の規定である営繕令について、北宋天聖令から復原されている唐令に再検討を加え、そこから日本令との比較を行うことによって、日唐営繕令の特質を検討しようと試みるものである。天聖営繕令全体の構成を概観したとき、特に復原3・4、12・13が重用な手続きを規定しているものと考えられる。よってこれら四条を中心として、唐令への復原、日本令との比較を行うこととする。
 唐代の諸史料から検討してゆくと、復原3・4は営造行為全体における尚書省への上申という原則を規定したものと理解できる。また復原12・13については、在京・在外営造における人功・用度について上申し許可を得るという手続を規定していたとみられる。すなわち唐令では、営造時の上申を何重にもわたって規定していることが知られる。これは復原3逸文が擅興律疏議に引用されることに端的に示されるように、軍事的な危険性を回避するためであったとみられる。このように営繕令とは、財政的側面と同時に軍事的側面とも密接に関わった篇目として理解しなければならない。
 こうした唐制に対し、養老令においては全ての場合を対象とする人功上申の原則は存在しなかったとみられる。また唐令で規定されていた、上申後の許可を得る部分については養老令では基本的に削除されている。こうした改編には、中央が地方に対して詳細な財政指示を行う唐に対して、日本では地方財政の自立性が強いという、彼我の財政構造の差異が背景にあったものと考えられる。特に日本古代の在外営造では、基本的に唐令のような事前上申はなされておらず、事後報告で済まされることが殆どであった。
 このように日本令では、条文・文言の削除、法解釈の工夫などによって日本的な財政構造に対応させている。すなわち大規模な改変はみられないが、あくまで日本なりの編纂方針に基づいた継受が行われたと考えられる。

 ・キーワード 日唐律令制比較、営繕令、天聖令、唐令復原、上申手続


中世中期・後期ドイツの諸侯法廷
田口 正樹

 本論文は、中世中期・後期ドイツの諸侯身分が、支配者の宮廷において有した特権として、諸侯に関係した事件は同じ身分の諸侯によってのみ裁判されるという諸侯法廷の問題を、証書史料の分析を通じて検討し、ドイツ国制における諸侯身分の意義という問題を考える一助としようとするものである。十三世紀前半には、諸侯が支配者の宮廷における裁判に加わり、判決を決定するという実践が、特に一二一〇年代から一二三〇年代にかけて積み重ねられていた。この実践はいったん中断した後、十四世紀後半のカール4世の治世に、選挙侯のみ、または選挙侯と諸侯による決定という、より縮小された形で再びあらわれるが、この第二の盛り上がりも十四世紀末にかけて再び下火になっていく。そして十五世紀に入ると、選挙侯以外の諸侯が、諸侯法廷の構成と手続に関する主張を法学的に展開するようになり、厳密な意味での諸侯法廷が確立に向かう。このような経過は、諸侯身分の閉鎖化後の諸侯身分の成熟過程と、中世中期から後期のドイツ国制の発展の曲折を映し出すものである。

 ・キーワード 諸侯、選挙侯、宮廷、裁判、特権


【学界動向】

古代ローマ法における特示命令に関する研究の一潮流 ― 行政を巡る法制史の一分野として
佐々木健

 古代ローマ法における特示命令が行政的と評される所以は、その要件・効果における訴権との対比にあるが、近年におけるその研究動向にあっては、先進・中心史観を脱した地域史・属州史や考古学の成果を踏まえ、行政ないし統治作用としての法的規制・規律を論じるに際してその素材として特示命令に言及する潮流が見出される。古代ローマ法学が法学と史学の交錯する場であるのと類比的に、特示命令研究と行政を巡る法制史の双方に跨るこの分野は、特示命令による保護の内容や手続を解明する論考と、自覚的に行政の在り方を法制史的に分析する論考とに下支えされており、従ってそうした研究や隣接諸科学の成果を摂取することで、自ずと新たな論点や方法論への展望が開かれるものと考えられる。

 ・キーワード 古代ローマ法、特示命令、行政、統治