法制史研究 57号(2007年)和文要旨

【論説】

マックス・ヴェーバーの講演「国家社会学の諸問題」(一九一七年)をめぐって ──国家社会学と正当的支配の四類型──
佐野 誠

 マックス・ヴェーバーは一九一七年一〇月二五日にウィーンで「国家社会学の諸問題」と題する講演を行っている。この講演については、これまで一部の研究者以外にはほとんど知られていなかった。特に注目されるのは、ヴェーバーがこの講演のなかで、従来の正当的支配の三類型(合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配)に付け加えるべき、第四の正当的支配の観念を提示したことである。これは、「被支配者の意思」から引き出される正当性の観念で、民主制的正当性と見なすべきものである。しかし、奇妙なことに、ヴェーバーはそれ以後一度も著作等で、この第四の正当性観念を論じることはなかった。これは何ゆえなのか。
 本稿では、ヴェーバーの講演内容が掲載されているウィーンの『新自由新聞』(一九一七年一〇月二六日付け朝刊)の記事内容を徹底的に検討することによって、この第四の正当性観念の消えた要因を探ってみたい。
 本稿の構成は二つの章からなる。第一章では講演「国家社会学の諸問題」の著作史的考察を、第二章では第四の正当性観念が消えた要因を取り上げる。特に、前者では、ヴェーバーの講演の成立事情、ヴェーバーの国家社会学に与えたゲオルク・イェリネックの思想史上の影響、「正当的支配の三類型」の著作史上の変化等を中心に考察する。後者では、第四の正当性観念が消えた理由を(1)「非正当的支配」との関係について、(2)「反権威主義的に解釈がえされたカリスマ」との関係について、(3)「支配」概念の本質的意味について、という三つの視角から論及する。ここでは、ヨハンネス・ヴィンケルマン編の『経済と社会』に収録されている「非正当的支配(都市の類型学)」に、「非正当的支配」という言葉が全く出てこないことの意味にも触れ、『経済と社会』の編纂史上の問題が、第四の正当性観念にも関わっていることを論証する。

 ・キーワード マックス・ヴェーバー、国家社会学、正当的支配の四類型、非正当的支配、人民投票的民主制


【叢説】

室町幕府所務沙汰とその変質
山田 徹

 個別領主の所領知行や年貢納入などに関する訴訟について、幕府がおこなっていた裁判─所務沙汰の室町期への展開については、南北朝期に将軍主催の場と管領主催の場という二つの訴訟機関が並立する体制が形成され、それが一五世紀半ばまで存続するという説明が、これまで与えられてきた。しかし、鎌倉期と同様の性格をもつ訴訟機関がそのまま形成されたかどうか、質の違いが視野に入れられているとはいいがたく、検討の余地がある。本稿は、鎌倉期的な所務沙汰の制度運営のあり方が本当に室町期にも継承されたのかを検討し、室町幕府所務沙汰の特質を解明することを目的とする。
 当該期の所務沙汰のあり方を示す史料を検討した結果、南北朝中期までの所務沙汰の審議・決裁は、引付・評定・仁政沙汰・御前沙汰など、制度的に設定され、日常的に式日運営がなされる所務沙汰機関においておこなわれていたが、南北朝末期にはこのような所務沙汰機関が急に姿を消し、所務沙汰の審議・決裁は奉行人が個別的に室町殿へ伺いを立てる形式の「個別伺」型に変化してゆくことが判明した。
 そもそも、所務沙汰がこうした場でおこなわれていた背景には、社会的弱者の救済をするため、彼らの訴訟を含めた多くの訴訟をある種の開放性・公正性のもとで裁定していこうとする、鎌倉期的、徳政的な政治規範が存在していた。したがって、こうした場の廃絶はこうした政治規範の放棄をも意味する。南北朝末期の変質によって、室町幕府による訴訟対応は幕府法をも作り出さないような個別的なものとなり、所縁に左右される度合いが濃くなっていくのである。
 こうした変化の理由は、一つには、従来の手続による訴訟裁定が内乱により困難になった、という点から説明できる。しかし、所領の回復命令を室町殿との個別的な関係による付与、つまり給恩に近いものとすることで、室町殿との関係を基軸とした人的秩序・所領秩序再構成への一助とする、という意味もあった。このような所務沙汰制度の変質は、南北朝末期の人的秩序・所領秩序の再編の動きに深い関わりを持つものであったと評価できる。
 そうした動きの結果、京都の領主社会とその周辺においては、室町殿の意向が強く及びうる範囲が創出される。しかし、その一方で、以前の幕府が持っていた一定度の開放性を放棄し、訴訟に対処しようとする姿勢を失うことになるのである。今後は、こうした二つの側面をともに視野に入れつつ、室町幕府の位置づけを考えるべきであろう。

 ・キーワード 室町幕府、所務沙汰、引付、式日、評定、御前沙汰、仁政沙汰


近世中後期幕府の上方支配 ──『御仕置例類集』の検討を中心に──
小倉 宗

 本稿では、近世中後期の江戸幕府において、公事方御定書とともに最重要の法源であった御仕置例類集を主にとりあげ、仕置に関することがらを中心に、関東とならぶ幕府の拠点地域である上方の支配を検討した。その際、上方の内部や江戸との間において、幕府役人が行政・裁判を処理する過程や権限に注目した。
 (1)幕府の上方役人は、伺とそれに対する指示という同じ過程のなかで、行政と裁判とを一体的・連続的に処理し、すでに発生している問題を個別的に解決するとともに、今後発生する問題について一般的に対処するための規則や制度を設定・変更していた。
 (2)上方役人の伺には、上方の奉行より京都の所司代や大坂城代への伺(上方奉行伺)、所司代や大坂城代より江戸の老中への伺(所司代伺・大坂城代伺)、上方奉行より老中への伺(江戸上り伺)、の三通りがあった。また、上方奉行と老中とのやりとりは、伺とそれに対する指示との両面において、所司代や大坂城代による監督・仲介のもとになされた。
 (3)所司代や大坂城代は、老中と同じ形式の文書を用いながら、上方奉行の伺に対して自ら決定・指示し、仕置をはじめとするさまざまな問題が上方の内部で処理された。延享元年(一七四四)に、仕置をめぐる所司代・大坂城代と上方奉行との関係が確立され、天明八年(一七八八)には、所司代や大坂城代が自ら指示しうる仕置の範囲が大幅に拡大された。
 (4)京都・大坂町奉行は、所司代や大坂城代のもと、それらの監督・担当する業務の全般にわたって調査・審議するという特別な役割を果たしており、そうしたあり方は、老中のもとにある評定所の位置や役割と同じであった。

 ・キーワード 上方、支配、公事方御定書、御仕置例類集、所司代、大坂城代、京都町奉行、大坂町奉行、老中、評定所、仕置、伺


明治国家体制における行政訴訟制度の立法変遷過程に関する法制史的考察
飛田 清隆

  従来、日本型の明治行政訴訟制度の研究については、個々の時代において行政訴訟制度がどのような役割であったのかについて論じた研究が幾つか存在した。本論においては、これらの従前の研究史を考慮の上、法令を重視しつつ、この明治行政訴訟制度の立法変遷過程とこれに関係する周辺事項を中心に論考するものである。そして、明治行政訴訟制度の所管権限が、明治政府によって、司法裁判所からどのような変遷過程を経て分離され、行政裁判所の設置とともにその管轄に組み込まれていったのかを、行政権の立法政策を通じて考察したものである。明治行政訴訟制度は、そもそも、江藤の司法改革の一環として発足したものであった。そのため、司法権(明治初期段階では司法省と司法裁判所が未分離の状態)が当初目指した行政訴訟制度の発足の趣旨は、人民救済の観点が強いものであった。ここに、わが国で初めての行政訴訟事件となった、所謂、小野組転籍事件が発生し、京都裁判所の所管から司法省臨時裁判所へ法廷が移され、明治六年の政変もあって、国家的事件発展して行く。しかし、京都府の責任者であった槇村らの拘留が特命により解かれることで終局を迎えた。本事件の影響は大きく翌年の明治7年には司法省第二四号が布達され、行政裁判の事項は司法裁判所がこれを所管することが公に認められたものの、行政訴訟事件が司法裁判所に提訴された場合には、司法省を通じて太政官の正院に具上申稟することが義務付けられたのである。その後、全国的に行政訴訟事件が急増したことに伴い、明治一一年に明治政府は、行政処分願訴規則案を元老院に上程することとなった。しかし、この規則案の立法趣旨が行政訴訟を否定したものであり、行政官庁に人民が歎願するという形式のみを許すという前近代的なものであったため、元老院の反対によって廃案に至った。その後、明治政府は、新たな法律・勅令・太政官布告・司法省布達等の立法を順次制定することによって、司法裁判所の管轄である行政訴訟の裁判権に深く干渉して行くのであった。やがて、明治政府は、その補助機関である法制局等を設置することにより、専門的に行政訴訟事件に対処して行く体制を整備した。その後、帝国憲法及び市制町村制が制定されることにより、明治政府は、明治二三年に行政裁判法を制定し、行政裁判所の設置を達成したのであった。ここに、明治政府は、司法権の行政権に対する牽制を排除することを達成したのである。また、行政裁判法の姉妹法である訴願法が同年に制定されたが、これら行政訴訟関係法令は、訴訟事項に列記主義を導入していたため、人民にとって、極めて権利救済の機会を抑止されたものとなった。本論では、この明治政府による小野組転籍事件以来の首尾一貫した行政権の自由の確保を主眼とする明治国家体制が如何に極めて行政権優位の体制であったのかを関係法令を通じて明らかにしようと試みるものである。

 ・キーワード 明治国家体制、行政訴訟制度、行政権主導、司法権の牽制、行政裁判法


近世フランスにおける地方警察の創設 ──オート=ノルマンディー地方のマレショーセ(一七二〇〜一七二二年)──
正本 忍

 マレショーセは、アンシァン・レジーム期フランスにおいて、主として田園地帯、幹線道路上の治安維持を担う軍隊組織(騎馬警察隊)であり、同時に、プレヴォ専決事件を最終審として裁く裁判組織(プレヴォ裁判所)でもある。一七二〇年三月、王権は当時のマレショーセを解体して組織を新しく作り直す大改革に着手する。本稿は、この改革により新設されたマレショーセがオート=ノルマンディー地方においてどのように創設されたかを、セーヌ=マリティーム県文書館、陸軍歴史課文書館所蔵の史料によって、第一に成員の徴募、第二に財政的基盤、第三に活動の面から検討したものである。
 一七二〇年三月四月の法令によってその骨格は示され、新生マレショーセは法的には創設された。しかし、新組織の成員は改革直後に一斉に採用されたわけでなく、各班に隊員が揃うのは一七二一年三月までずれ込むこととなった。マレショーセに対する財政措置も、一七二〇年までは旧組織に対するそれであり、一七二一年の特別措置を経て、一七二二年から新組織に対する措置が確立する。さらに、プレヴォ裁判や隊員の活動の面でも、一七二〇年は旧組織から新組織への過渡期で、新マレショーセが本格的に始動するのは一七二〇年末から翌一七二一年初めにかけてのようである。つまり、一七二〇年春に法的に成立する新生マレショーセは、オート=ノルマンディーにおいては組織、財政、活動のいずれの面においても実質的には一七二一年以降に確立するのである。一つの組織を見る上でこのような法令とその実施との時間差には留意すべきであろう。

 ・キーワード フランス、アンシァン・レジーム、マレショーセ、裁判、プレヴォ、ノルマンディー


【学界動向】

「宗族」研究と中国法制史学 ──近五十年来の動向
松原 健太郎

 本稿は一九五〇年代末から現在に至る「宗族」研究の系譜について、中国「法制史」学の関心という観点からの再構成を目的とする。「宗」という父系親族関係に関わる理念的秩序を通じて財産への権利関係が如何に整序され、こうした秩序に基づいて結集する族人間に如何なる身分的諸関係が成立するか、また国家官僚機構と個々の「家」の「中間に位する自治的な組織」即ち中間団体としての「宗族」が、国家統治との関係において如何なる役割を果したか、という「法制史」学の関心であるが、本稿ではこれらの異なる局面を一つの整合的な図式のもとに整理して強い影響力をもったMaurice Freedmanの議論から出発する。Freedmanの研究は特に英語圏において、「宗族」に関する具体的な情報が増える中で、また研究のための理論的な枠組みに関する議論が発展を遂げる中で、何重にも批判されることとなった。本稿こうした批判及び理論的発展の系譜を追って現在における議論の状況及び未解決の課題を明らかにする一方で、Freedmanの問題設定を踏襲したものとそうでないものが相互に影響を与えつつも全体として各々独自に発達を遂げた日本・中国の「宗族」論の系譜についても簡単な見通しを立てる。そして、英語圏・日本・中国における諸研究の成果を統合した上で「法制史」学の関心に立ち戻ることが、中国法制史学における「宗族」研究のみならず、「団体形成」「地域社会秩序」「財産保有の国家官僚機構・民間諸主体双方による保証」といった諸問題の相互関係といった、「法」の在り方についての根本的な諸問題への接近の可能性をもっている、ことを示そうとする。

 ・キーワード 宗族、団体、族産、財産権、歴史学、人類学、社会理論