法制史研究 56号(2006年)和文要旨

【論説】

バロンの反乱と一二五八〜六五年の王国共同体
朝治 啓三

 一二五八―六五年の国政改革運動中に改革派諸侯が構想した王国共同体とは何かをめぐって、スタッブズ以後の研究者によって様々な像や解釈が公にされてきた。一九世紀後半の歴史家であるスタッブズはこれを、イングランド在地住民全体からなる共同体と見なし、国民的共同体説を唱えた。一方トレハーンは一九三〇年代以降、これを国王の直臣たちの共同体であると見なし、改革運動に際して結成され、やがて内部分裂によって崩壊したと見なした。その後パウイクやカーペンタはスタッブズ説に沿って、封建的階層制の社会から、王国住民の横の連帯を土台とし、諸侯や騎士をその代弁者とする社会への移行過程に構想された共同体であるとの解釈を示した。一九八〇年代にクランチーはトレハーン説を踏まえて、共同体を結成するために不可欠な宣誓を実際に行ったのは、改革運動初期に中央に集まり、国王に改革を要求した直臣・諸侯のみであることを主張した。
 本稿では一二五八―六五年の公文書に登場するCommunity of the realmの語を網羅的に採取し、それが意味するものは何かを検討した。その結果、一二五八―六〇年の運動開始期には、国王と共に中央権力を共同行使する、直臣・諸侯の共同体を意味したが、一二六〇―六三年には内部分裂により結束が崩れて、共同体としての活動が不可能になったことを突き止めた。しかしその後の時期におけるこの語の用例を探ると、一二六三―六五年のレスタ伯シモン・ド・モンフォールが政府の実権を掌握した段階で、彼はこの語を再度使用し始め、それまでとは異なる意味、すなわちレスタ伯の政府を支持する諸侯や騎士また都市民の団体としての意味で用いるようになったことを突き止めた。一二六五年八月のレスタ伯の戦死、国王の政権回復の後、一二七五年に開かれたパーラメントで、国王エドワード一世はウエストミンスタ第一制定法を聖俗諸侯、騎士等の州代表、及び都市代表等の同意をもとに決定した。レスタ伯の時と異なるのは党派的でないという特徴であり、共通するのは統治者・国王のもとに諸勢力が協働するという構図になっている点である。これは、封建的国制における支配階級、すなわち国王と広い意味での封臣たちの、パーラメントにおける協働による王国統治の成立を意味する。一二五八―六五年の国政改革運動は、その成立の前提条件を創ったのである。

 ・キーワード 王国共同体、国王権、封建的国制、パーラメント、シモン・ド・モンフォール


【叢説】

「官報」の創刊と人民の法令理解について──中央権力機構の変遷と法令伝達制度
岡田 昭夫

 従来、「官報」の創刊に関しては、国立公文書館所蔵の「公文別録」を基礎史料として、山縣有朋が主導した創刊経緯が論じられることが多かった。しかしながら慶應義塾大学刊行の『福沢諭吉全集』に大隈重信による「法令公布日誌」構想が紹介されている。これに端を発し、筆者が調査を進めたところ、国立公文書館に大隈の同構想に関する公文書が存在することが明らかとなった。そこで拙稿ではこれらの史料を基に、大隈の「法令公布日誌」と山縣の「官報」構想の整合性について検討を試みた。
 また、筆者は、法令伝達に関する一連の研究の過程で、明治十四年の大隈の「法令公布日誌」構想と相前後する時期に発令された各省事務章程通則が、「法令公布日誌」ないし「官報」を創刊せざるを得なくなるような、不可避的な制度変革を中央権力機構にもたらしたと考えている。
 法令伝達の見地からは、太政官内閣制は前記各省事務章程通則の制定で大きな転機を迎えた。すなわち、法令の発令件数を調べると、明治十五年には発令件数そのものは前年を下回っているが、太政官の発した法令件数が全法令に占める割合は、突如前年の倍以上に突出した。これは明らかに前記各省事務章程通則第四条による機構改革に起因する。同条により実務諸省の首長である卿が当該実務執行について天皇への補弼責任を負担することになり、太政大臣のみが補弼責任を負うという従来の太政官制に大きな変化をもたらした。しかしこのため、各省が人民一般に対して発令していた布達は、省卿の副書に伴い発令機関が本官たる太政官へと必然的に移行することとなった。そのため従来各省が独自に発令していた布達は、たとえそれが各省の専権にかかる立法分野であっても、太政官が省側から伺を受け稟議取り決めの上指令を発し、省側が草案を起草し太政官がそれに決裁を与え布達として発令し、必要な場合は当該法令を制定した旨を他省庁に示達するという複雑な手続きを強いられることとなった。その結果、法令の発令件数は激増し、文書処理は煩雑化し、太政官に予想以上の過剰な負担を強いる結果となったのである。
 こうして、明治六年以降に形成されてきた法令伝達システムは、上記の布達の発令系統の抜本的変革に対応できなくなった。このことが、新たな法令伝達方法の必要性を生み、それが明治十四年政変で沙汰止みとなってしまった大隈の「法令公布日誌」様の新たな法令伝達システムの早急な構築の機運をもたらしたのである。このように、「官報」の創刊には、当時の権力機構に内包される必然的要請があったのである。  また、西洋近代法における「法令伝達セ人民の法令周知の擬制(法令を周知したものとみなす)」というテクニックが我が国で本格的に導入されたのはいつからかという解明すべき問題が存在した。すなわち明治六年六月一四日太政官第二一三号の「三十日間掲示ノ後ハ管下一般ニ之ヲ知リ得タル事ト看做候」とされたが、この三十日間は周知の擬制までの猶予期間か、周知の実現のための努力期間であるのかが明らかではなかった。また、その後、「官報」創刊の下準備として、明治十六年五月二六日太政官第十七号布告により、布告布達は各府県到達後七日を以て施行されることとなった。この七日の位置づけも同様に明らかではなかった。  これらの問題について、筆者は明治十五年『元老院会議筆記』中に存在する明治十六年太政官第十七号布告に対する元老院の法案読会の史料に出会うことで、結論を得ることができた。
 すなわち、法令周知の擬制というテクニックが本格的に導入されたのは、「官報」創刊後二年余を経た明治十八年十二月二八日に内閣第二三号布達により布告・布達も「官報」登載を正式な伝達方法とされて以降であった。従って上記の明治六年太政官第二一三号の「三十日間」および明治十六年太政官第十七号布告の「到達後七日」は法令周知のための努力期間であることが明らかとなった。

 ・キーワード 官報、法令公布日誌、太政官内閣、明治十四年各省事務章程通則、法令周知の擬制


天明・寛政期における江戸幕府大目付職務の一考察──駆込訴の処理手続を中心に
山本 英貴

 小稿は、江戸幕府大目付の天明・寛政期(一七八一〜一八〇〇)における駈込訴の処理手続を検討し、その職務の一斑を解明しようとするものである。
 松平太郎氏により着手された大目付の研究は、その後も様々な視角より分析が深められている。しかし、従来の研究状況を鑑みれば、諸先学の眼目は、幕府の裁判制度や大目付が加役として兼任した諸「掛」の解明にあり、同職自体の基礎研究は未だ不十分といえよう。したがって、大目付の研究は現在、二つの課題を内包していると考えられる。一は、伝存過程の明らかな一次史料により、大目付の組織・構造を把握すること。二は、上記にもとづいて、その具体的な職務を明らかにすることである。小稿の試みは、二に該当する。
 なお、小稿において取り上げる駈込訴は、駕籠訴・駈込訴・捨訴など、越訴を個別に検討した小早川欣吾氏、あるいは駕籠訴・駈込訴、いわゆる非合法訴訟に焦点を当て、幕府や諸藩の訴訟制度、およびその機能について解明を試みた大平祐一氏により分析が深められている。とりわけ大平氏は、老中・三奉行(寺社・町・勘定)による駕籠訴・駈込訴の取り扱いを検討し、@幕府は基本的に非合法訴訟を受理しないが、黙視し得ぬ内容であれば、取り上げ、審理を開始した。Aそれゆえ、非合法訴訟に対しても、受理・不受理を判断するための取り調べを行っていたと指摘する。
 さらに、大平氏の論考によれば、駈込訴は老中・三奉行のみならず、若年寄や大目付などに対しても行われた。したがって、非合法訴訟に対する幕府の方針を明らかにしようとする場合、上記の諸職が、老中・三奉行と類似の方法で駈込訴を処理したのか、あるいは異なる方法で対応したのか、分析を試みる必要がある。そして、異なる処理を行っているならば、その実態を解明し、老中・三奉行による駈込訴の取り扱いと比較・検討して総括的に位置づけなければならない。以上の分析にあたり、三奉行とともに老中より箱訴状の審査を任された大目付は格好の研究対象と考えられるのである。そこで小稿では、内閣文庫架蔵「久松日記」を中心に、如上の関心事を解明する。

 ・キーワード 大目付、駈込訴、駈込人、老中、三奉行(寺社・町・勘定)


清代の「罰金」と地方財政
喜多 三佳

 本稿の目的は、清代中国において、法に規定のない「罰金」刑が、なぜ、どのように存在したのか、それが社会的に果たしていた役割は何なのか、を明らかにすることである。中国古代の法典には罰金規定があったが、隋唐以降、このような規定は法典から消えてしまった。一方で、清代の史料を見てみると、「罰銀」「罰米」「罰穀」といった言葉が散見し、軽微な犯罪について、これらが徴収された事例も決して珍しくない。本稿では、これらの罰を総括し、また清末の近代的刑法典以降の罰金刑と区別するために「罰金」と表記した。
 『刑案匯覧』には、官吏が「罰金」を取ったことでとがめを受けた事例が数件載せられている。問題になったのは、主として、上司に報告せずに、多額の「罰金」を科したケースであった。「罰金」の徴収をめぐっては、何度か皇帝の判断も示されているが、そこで問題にされているのは、官吏が私腹を肥やしたことや、「罰金」を科した相手が自殺するというような重大な結果を引き起こしたことであり、「罰金」を取ることそのものについての批判は、ほとんど見られない。
 本稿では、康煕末年の浙江省天台県の行政記録である『天台治略』を例として、県レベルで徴収された「罰金」及び没収品が、どのように利用されていたか、という点を中心に考察した。さらに、財物の没収や「罰金」が、どのくらいの頻度で科せられたか、一件あたりの金額はどのくらいか、という点について仮説を立て、没収や「罰金」による収入は、州県の財政に大いに寄与できる規模だったとの推計も行った。

 ・キーワード 罰金、罰銀、没収、清代、地方財政


Conflit de juridictionsとアンシャン・レジーム期フランスの法構造──商事裁判所資料を素材として
松本 英実

 本稿は商事裁判所をめぐる裁判所間の争いconflit de juridictionsに焦点を当てることにより、アンシャン・レジーム期フランスの裁判制度を考察するものである。資料として商事裁判所が編纂した王令・判決集に注目し、一次資料を紹介してconflitについて基礎的な事項を明らかにする。さらに、設立・展開過程の考察を通してconflit de juridictionsが当時の法構造と結びついた現象であることを示す。設立過程の中で王令登録をめぐって表明されるパルルマンによる設立反対は、その後個別のconflit de juridictionsとして展開していくが、そこでは設立王令の効力自体が各法院・裁判所による登録の問題として問われる例が見られる。一つの王令が裁判所の承認を通じて複数の異なるヴァージョンを生み出し得るという規範構造がここに看取される。この規範的特徴はconflit de juridictionsを通して最も鮮明に表明されると同時に、同特徴が裁判所間の争いの重要な一因をなすものであると分析される。

 ・キーワード 裁判管轄争い、フランス、アンシャン・レジーム、商事裁判所、王令登録


【学界動向】

戦後占領期日本の法制改革研究の現況と課題
出口 雄一

 二次世界大戦が終結してから六〇年が経過した現今、「戦後」を対象とした歴史研究が盛んであり、法史学の立場からの言及も見られるようになってきた。本稿は如上の現況を踏まえ、「占領史研究」の立場からの戦後改革研究、及び、実定法学者による占領期法制改革研究の中から、「戦後日本法史」あるいは「現代日本法史」の構築に資すると筆者が考える業績を紹介するものである。その前提として、第二次世界大戦後の我が国における「占領管理」の枠組みと、その実施のために用いられた「ポツダム命令」を中心とする法令についても若干の検討を試みた。
 この領域で最も研究が進んでいる日本国憲法の制定過程についての研究は、一九五〇年代の憲法調査会の活動により先鞭がつけられたが、アメリカ側史料の公開と日本側史料の整理が進んだことにより、多角的視点による通史的叙述、逐条的な実証研究、占領側の多様性の分析、本格的な史料批判などが行われている。それ以外の法領域については、本稿では一九四六年に設けられた臨時法制調査会の活動に即して研究動向を紹介したが、多くの法領域では、日本側立法関係者の同時代的な研究及び史料翻刻に加え、アメリカ側史料の利用がようやく始まった段階である。
 地方制度改革・教育改革・経済改革などの「占領史研究」が盛んな分野では現在、占領政策の実施過程への関心が高まりつつある。「戦後日本法史」あるいは「現代日本法史」は、戦後占領期の我が国における「アメリカ法継受」のあり方の検証も視野に含めて、これらの研究に積極的に応答する必要があるが、そのためには洗練された方法論が不可欠である。

 ・キーワード 近現代日本法史、占領史研究、第二次世界大戦、日本占領、戦後改革