法制史学会第65回総会のご案内


 法制史学会第65回総会を下記の要領で開催いたします。ふるってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
 総会等への参加につきましては、同封の振込用紙に必要事項をご記入のうえ、5月15日(水)までに振込手続をお済ませください。お振込みの確認には若干の日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守くださいますようお願い申し上げます。
 なお、非会員の方々も、当日会場にて参加費をお支払いただけば、研究報告に限り自由に傍聴できます。ご関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。

(1)研究報告
  第1日:2013年6月15日(土)午前10時開始
  第2日:2013年6月16日(日)午前10時開始
  会場:6月15日 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎S405
     6月16日 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎S505
  参加費:1,500円

(2)懇親会
  日時:2013年6月15日(土)午後6時開始予定
  会場:中国飯店  千代田区九段北4-1-7 九段センタービルLB1(案内図をご参照ください)
  参加費:7,000円

(3)見学会
 見学会は実施いたしません。

(4)昼食
 市ヶ谷キャンパス内の各食堂は、土曜には一部を除いて閉店し、日曜日にはすべて閉店します。また、キャンパス周辺で日曜に営業している店舗は限られます。両日とも弁当(1,200円)のご利用をおすすめいたします。事前にご予約いただいた分のみのご用意となりますので、ご利用の方は同封の振込用紙にてお申し込み下さい。

(5)宿泊
 申し訳ございませんが、準備委員会では宿泊のお世話はいたしておりません。
 なお、会場への徒歩圏内には次のホテルがあります。ご利用の際は各自でご予約ください。
  ◆アルカディア市ヶ谷  6500円~   03(3261)9921
  ◆グランドヒル市ヶ谷  7450円~   03(3268)0111
  ◆グランドパレス    8300円~   03(3264)1111

(6)連絡先 ※なるべくE-mailをご利用下さい。
  〒102-8160 東京都千代田区富士見2-17-1 法政大学法学部資料室内
         法制史学会第65回総会準備委員会(川口由彦・高友希子)
  電話:03 (3264) 9748 (川口研究室 大会当日はつながりません)
    :03 (3264) 5478 (高研究室 大会当日はつながりません)
  当日緊急連絡先:080-4943-3420
  Fax:03 (3262) 7822 (法学部資料室内 大会当日はつながりません)
  e-mail:ykawa@hosei.ac.jp(川口e-mailアドレス)
     :taka@hosei.ac.jp(高e-mailアドレス)

【大学へのアクセスマップ】

  【JR線】 総武線:市ヶ谷駅または飯田橋駅下車徒歩10分
  【地下鉄線】 都営新宿線:市ヶ谷駅下車徒歩10分
  【地下鉄線】 東京メトロ有楽町線:市ヶ谷駅または飯田橋駅下車徒歩10分
  【地下鉄線】 東京メトロ東西線:飯田橋駅下車徒歩10分
  【地下鉄線】 東京メトロ南北線:市ヶ谷駅または飯田橋駅下車徒歩10分
  【地下鉄線】 都営大江戸線:飯田橋駅下車徒歩10分



総会プログラム


 第1日 6月15日(土)

10:00―11:00「明治前期における地方監獄の展開」児玉圭司(国立舞鶴工業高等専門学校)
11:00―12:00「Lost in Translation ――プブリキアーナの訴えのオントロジー転換――」津野義堂(中央大学)
 12:00―13:00昼休み
13:00―14:00「治安判事の陪審によらない裁判所 Summary Court について」栗原眞人(香川大学名誉教授)
14:00―15:00「帝政後期における弁護人の資質と存在意義」粟辻悠(京都大学)
 15:00―15:30休憩
15:30―16:30「1920年代台湾の地方統治に関する一考察 ――「郡警分離」問題を手掛かりに――」謝政徳(大阪大学)
16:30―17:30「1789年フランス人権宣言のテルミノロジーとイコロノジー」石井三記(名古屋大学)
 18:00―懇親会


 第2日 6月16日(日)

10:00―11:00「史料紹介:岳麓秦簡司法文書集成『為獄等状四種』について」陶安あんど(東京外語大学)
11:00―12:00「近世前期上方の信用と意識構造 ――文芸を手掛かりとして――」桑原朝子(北海道大学)
 12:00―13:00昼休み
13:00―15:00総会
15:00―16:00「アレクサンデル3世期における婚姻法 ――X 4,7,2をてがかりとして――」直江眞一(九州大学)
16:00―17:00「日本中世の裁判における実検使について ――堺相論実検使を中心に――」山本弘(星薬科大学)
17:00閉会



報告要旨


明治前期における地方監獄の展開

児玉圭司(国立舞鶴工業高等専門学校)


 本報告では、明治初年から同10年代前半の各府県に存在した刑事施設(以下、地方監獄と表記する)に注目し、施設の性質や規則の変遷を追うとともに、処遇の転換点を探る。
 日本では明治初年以降、「新律綱領」・「改定律例」をはじめとする法令を通じて、徒刑・懲役刑といった自由刑の全国的な採用・普及をみた。また、明治5年には、全国での施行を目指した初めての包括的な行刑法といえる「監獄則」が制定され、こののち、日本の監獄制度は西洋化への歩みを進めたものと解されている。しかし、これらはあくまでも政府の法令レベルで捉えられた動向であり、各府県に設けられた地方監獄の実情や、そこでいかなる法令や理念にもとづく処遇が行われていたのかについては、先行研究の蓄積も乏しく、十分に解明されていない。
 明治初期の各府県には、近世以来の伝統的な施設―例えば「牢」や「徒場」―が存在しており、施設はもちろん官員や規則も、一定程度は従来のものが受け継がれていたと予想される。そうした伝統的な要素に対して、政府の法令に取り入れられた西洋的な要素は、いかなる形で接合されたのであろうか。地方監獄の実情を実証的に把握するとともに、そこで受容された処遇の理念や運用を検証してこそ、監獄制度における「西洋法の継受」の本質を捉えることができるものといえよう。
 以上のような問題意識のもと、本報告では「府県史料」をはじめとする比較的成立時期の早い二次史料を積極的に活用して、いくつかの地方監獄の成立過程をたどる。その際に、施設の淵源・立地や未決・既決という拘禁区分の確立、処遇の統一(全国化)が図られる時期とその契機といった特徴的な事象を取り上げることによって、地方監獄の展開についての一般的な素描を試みたい。また、その成果を踏まえた上で、明治10年代前半までに形成された処遇が果たして「西洋化」と評価し得るのか否か、若干の私見と今後の課題を示してみたいと考える。




Lost in Translation
――プブリキアーナの訴えのオントロジー転換――

津野義堂 (中央大学)


 ローマ法で認められるプブリキアーナ(Publiciana)と呼ばれる訴え(actio)は、法史家にはDiósdi(ディオジュディ)の本(1970)の日本語訳(1983)によってよく知られていて、法思想史でも、近世の自然法論者プーフェンドルフが引証したことが論じられる。また、ヨーロッパの民法典を統一する枠組み(CDFRなど)の研究でも、プブリキアーナがとりあげられている。その意味で、このローマ法の制度は(ひとつの)「生ける過去」である。
 プブリキアーナの訴えの法理を、古典法とユスティニアーヌス法について明らかにする。法源史料として、D 6.2.9.4 (Ulp.- Iul.)とD 19.1.31.2(Ner.)の解答を比較し、ディゲスタで三重に伝えられている(Triplet)、D 6.1.72(Ulp. 16 ad ed.); D 44.4.4.32(Ulp. 76 ad. ed.); D 21.3.2(Pomp. 2 ex Plaut.)をとりあげる。とくに、D 44.4.4.32では、actio Publicianaとin bonis (non) haberetの二つの表現が出現するが、その意味も解決したい難問のひとつである。
 この法素材についても、日本語への(置き換えという意味での)翻訳は不可能に近いが、英語・ドイツ語やヨーロッパ各国語への翻訳にもコミュニケーション上いろいろな困難がある。しかし、「翻訳」は実はユスティニアーヌス自身が抱える問題でもあった。
 オントロジーとその転換(シフト)という観点を導入することで、プブリキアーナの世界についての知識は格段に理解しやすくなる。プブリキアーナの訴えの法理を、できるだけ形式的(formal)に、しかし論理法学(吉野一)とは違ったアプローチで知識表現したい。法規範文の「意味」の考察も論理(真か偽か)推論(modus ponens)の考察とともに重要であり、科学としての法律学を実現するためには「在ること」と「ことば」の関係からのアプローチも必要不可欠だということを例証することができたらと思う。




治安判事の陪審によらない裁判所 Summary Court について

栗原眞人(香川大学名誉教授)


 「ミドルセクス治安判事法」(1792年)、「テームズ川警察法」(1800年)によって、首都圏(シティを除く)に9つの公務所public officeが設置され、27人の有給治安判事stipendiary magistrateが単独で裁判権を行使する陪審によらない裁判所が設置された。陪審によらない裁判所では、「疑わしい人達suspected persons」、「窃盗犯といわれる人達reputed theives」、「不法な所有illegal possession」という三つの犯罪によって、窃盗犯罪を中心に大量の軽罪が有罪として迅速に処理され、短期間の拘禁刑が科せられた。これら三つの犯罪は、18世紀ロンドンの治安判事による陪審によらない裁判所で処理されていた犯罪を発展させたものであった。特に、「疑わしい人達」と「窃盗犯といわれる人達」は18世紀ロンドンの浮浪者vagrantの問題が関連した。
 「ミドルセクス治安判事法」と「テームズ川警察法」は、治安判事の権限を定める新たな議会制定法のもとでその後も継続される。その一方で、1829年の首都圏警察の設立によって、治安判事の執行権と司法権が分離され、治安判事の執行権は首都圏警察に徐々に移管されるが、1839年の警察裁判所法によって、有給治安判事による陪審によらない裁判所は警察治安判事police magistrateによる警察裁判所police courtとして確認され、その後も存続した。
 本報告では、(1)治安判事の自律的な陪審によらない裁判所が有給治安判事制の導入によって再編成されるに至った歴史的背景、(2)19世紀前半期における警察治安判事による陪審によらない裁判所の活動と、迅速な事件処理を可能にした陪審によらない裁判所の訴訟手続を、陪審制を採用するオールド・ベイリOld Baileyへのその影響とともに検討する。(3)さらに、有給治安判事制が導入されず、首都圏警察の管轄区域からも除外され、伝統的な名望家治安判事制が維持されたシティの陪審によらない裁判所にも言及したいと考えている。




帝政後期における弁護人の資質と存在意義

粟辻悠(京都大学)


 法廷において他人のために弁護活動を行う存在としての弁護人は、古代ローマにおいては既に共和政期から見出される。伝統的な見解においては、帝政後期以前の弁護人と帝政後期の弁護人は、とりわけ資質の面において異質な存在であったとして区別されてきた。それはすなわち、帝政後期以前の弁護人がレトリックを学んだ弁論家に過ぎなかったのに対して、帝政後期の弁護人は法を学び、「法律家」と呼べる存在になったという区別である。そこから垣間見えるのは、弁護人研究を法学者や法律家の研究の添え物とみなし、弁護人に対する評価の基準を法学習得の有無という点に専ら置いてきた、研究史における伝統的な姿勢である。そのような中で近年、共和政期以来の弁護人が武器としていたレトリックを伝統的な低評価から救い出し、積極的に再評価するという観点から、帝政後期以前の弁護人の存在意義をも正面から見直そうとする試みがなされている。しかし、「法律家」とされていた帝政後期の弁護人については、そのような正面からの再検討はなされていなかった。
 そこで本報告では、弁護人について未だ十分に再検討のなされていない帝政後期を対象として、レトリックと法学の対立という伝統的な図式に囚われない形で、資質の面から見た帝政後期弁護人の存在意義を考察する。史料の利用という点については、例えばレトリック文献等の、従前注目を浴びてこなかった非法学文献を利用することによって、先行研究においてしばしば見られた法学文献の偏重(例えば、一部弁護人に法学習得を強制した法文の過度の一般化など)を是正し、当時の弁護人の実態をより正確に把握することを目指す。具体的な検討の手順は、以下のようなものとなる。まず準備的な検討として、史料において弁護人を指し示す諸単語について検討を加えて、弁護人という対象そのものを明確にし、さらに弁護人の経歴について検討を加えて、弁護人の有する資質を推認する助けとする(例えば、少なからぬ弁護人がレトリック教師の経歴を有していたことなど)。次にそれらの準備的検討の成果を利用しつつ、弁護人の資質について中心的な検討を行う。そこでは、帝政後期にも依然としてレトリックが重要な資質であったこと、その一方でそれを補うものとして法学が浸透していったことを明らかにする。そして最後に、帝政後期の弁護人が、法廷においてそれらの資質を巧みに活用することで、紛争当事者にとっては自らの利益の保護者として、法廷の主宰者たる国家にとっては法廷という紛争解決システムの信頼性の保護者として、法廷に不可欠な専門家としての存在意義を獲得していったことを示す。
 なお、詳細は、3月25日に博士(法学)を付与された論文「古代ローマ帝政後期における弁護人」をご参照いただければ幸いである。




1920年代台湾の地方統治に関する一考察
――「郡警分離」問題を手掛かりに――

謝政徳(大阪大学)


 植民地台湾の地方制度は、大正9(1920)年の改革により成立した。改革の骨子は、州・市・街庄という地方団体の設立とともに、州・市・郡・街庄という地方行政官庁も整備されたことである。なかでも、街庄の監督機関として郡守が新設されたことは注目に値する。もともと、大正9年の「台湾総督府地方官官制」(勅令第218号)は、「従来支庁長以下の地方官吏は主として警察官吏を以て之に充て普通行政事務をも兼掌せしめ」た従来の地方行政制度を改正し、「普通行政事務は普通文官を以て之に充て警察をして警察本然の機能を発揮せしむる」ことを基本としながら、「行政機関の統一を保たしめむが為め」という理由から、郡守に警察権を付与することとしたのである(大正9年9月1日「田総督の地方長官に対する訓示」)。いわゆる「郡守警察制度」は、同時代の日本本国、朝鮮の地方制度にはなかったものであり、植民地台湾独自の制度であったといえよう。
 ところで、このような「郡守警察制度」に対して、大正末期から総督府内部には「郡警分離」論がしばしば提起されていた。昭和5年、石塚英蔵総督が「郡警分離」を積極的に取り組み、その実現を期していた。しかし、同年9月の霧社事件による石塚の総督辞任とともに、「郡警分離」論が立ち消えとなった。大正9年地方制度改革の性格、あるいは1920年代台湾の植民地統治のあり方を理解するためには、「郡警分離」問題に焦点を当てて分析を加えることが有益であると考える。
 植民地台湾の地方行政における「郡警分離」問題を論じた研究はほとんどないが、近年、石塚英蔵総督が自身の台湾統治経験から「郡警分離」に取り組む過程を明らかにした研究がある。それによれば、石塚が積極的に「郡警分離」の実現を推進した狙いは、台湾人の郡守登用が可能になることにより、1920年代に高揚した台湾人の自治意識に対応しつつ、台湾人知識階級の統治への協力を得ようとした側面があったという。また、警察と郡守の業務を分離することは、台湾人の自治や産業発展を進める契機となったのではないかとも指摘されている。しかし、「郡警分離」は石塚が総督に就任する以前からすでに問題とされていたことから考えると、あらためて郡守と警察との関係や郡行政の実態などを再検討する必要であると思われる。
 本報告は、『台湾総督府公文類纂』や当時の新聞、雑誌などを利用し、総督府内部で「郡警分離」がどのように捉えられていたのか、郡行政の実態および郡守と警察との関係がどのようなものだったのかを明らかにすることにより、植民地台湾の地方統治の構造と特徴の一端について考察を行うものである。




1789年フランス人権宣言のテルミノロジーとイコロノジー

石井三記(名古屋大学)


 ユネスコの世界記憶遺産にも登録されている1789年フランス人権宣言は、その歴史的モニュメントとしての意義もさることながら、現在、フランス第5共和国憲法下の憲法院において裁判規範として用いられている現行法でもある。したがって、ある意味で、従来の人権宣言研究が憲法学の領域でなされてきたことも当然なことのように思われる。ところで、フランス人権宣言というと、世界史などの教科書等でおなじみの図像が想起される。じつは、この図に記されている条文は、1789年時点のものを元にしているのであり、人権宣言がその2年後のフランス最初の成文憲法冒頭に置かれた際のものとは細部において異なっている。よく知られているのは第17条のpropriété(s) の単数複数問題であろう。本報告では、このような文言の違いに注目し、人権宣言の用語法について、むしろアンシャン・レジームの同時代の視点から読み解くとどのようになるのかを検討してみたい。たとえば、第3条に登場するprincipeということばをアンシャン・レジーム期の辞典等で引くと、それが神学的な意味さえ持ちうること、人権(droits de l’homme)ということばの初出はルソーの『社会契約論』にあるのだが、それは同書末尾の「市民宗教」を論じた章に登場するのであり、ここでも宗教的性格をおさえておくことの重要性を主張しうること、そして、1789年人権宣言の前文に出てくる「最高存在」は「神」を意味することがつとに知られており、わが国で最初にフランス人権宣言が紹介されたときの訳では「天神」になっていたこと、これらのことは従来のフランス人権宣言研究では十分に注意が向けられてこなかったのではないだろうか。このことばへの注目をさらに図像資料で補ってみよう。ここで紹介したい資料は、革命初期のすごろく遊びの図である。公民教育のために作られたこのゲームの図版では、スタートの「平等」から「憲法」までさまざまなタームがそれぞれの図とともに登場するのだが、当時の人びとがどのような思いをそれらに込めていたのかがゲームのルールとともにイメージできるのである。このように、従来の人権宣言の読解とは異なる読みを、ことばと図像に焦点をあてて、当時の時代のコンテクストのなかでとらえることを試みてみたいと考えている。




史料紹介:岳麓秦簡司法文書集成『為獄等状四種』について

陶安あんど(東京外語大学)


 岳麓書院所蔵秦簡(略称「岳麓秦簡」)とは、2007 年12 月から2008 年8 月にかけて湖南大学岳麓書院が香港から買い取りないしは寄贈を受けた約2200 枚の竹簡・木簡からなる史料群である(収蔵の状況等については、陳松長「岳麓書院所蔵秦簡総述」(文物二〇〇九年第三期)を参照されたい)。『為獄等状四種』(略称「為獄状(いごくじょう)」)という司法文書集成と、秦律・秦令を収録した法令集とが全体の約3 分の2 を占め、その他は、算術書の『数』、夢占いの『占夢書』、官咸書の『為吏治官及黔首』および『二十七年日質』といった日誌類から構成される。『占夢書』、『為吏治官及黔首』や日誌類は、2010 年12 月、『数』は2011 年12 月に、それぞれ『岳麓書院蔵秦簡(一)』と『同(二)』として公刊され、『為獄等状四種』についても2013 年5 月に報告者の陶安が図版の整理と釈文・注釈・現代中国語訳の作成を担当した図録が刊行される予定である。
 『為獄等状四種』は、寸法・編綴紐の位置や筆跡等、簡牘の外觀上の特長によって四種類に区別されるが、収録されている司法文書は、文書の自称に従って「讞」・「覆」・「奏」という三つのカテゴリーに分けることができる。「讞」とは、法解釈上疑義のある事案について上級機関に対して指示を請う伺い書と理解することができる。「覆」とは、原義においては郡以上の上級役人による詳しい調査を表すが、『為獄等状四種』では、郡吏による再審を指す。「奏」とは、「微難獄」と稱せられる刑事事件において、巧みな手法によって被疑者を割り出して事件解決に貢献した獄史を、郡の卒史等に推薦する文書であり、推薦文書の添付資料として、詳細な捜査記録が添えられている。
 文書の収録範囲においては、『為獄等状四種』は、張家山漢簡『奏讞書』と高い類似性を示すが、『為獄等状四種』は、戦国秦の晩期から統一秦にかけてと、時代がより早いのみならず、書籍の形態としても、まだ『奏讞書』のような統一的編纂物になっておらず、緩やかな文書集成の形を取っている。つまり、個別事案に見られる秦代法制史に関わる諸種の史実に加えて、「奏讞書」というジャンルの実用書の原型を示す点において、『為獄等状四種』特有の史料価値が認められよう。
 なお、岳麓秦簡は、盗掘品ではあるが、記載内容及び簡牘形態において、従来学界によって認識されていなかった幾つもの特徴を示すため、信憑性について疑う余地がない。本報告では、『為獄等状四種』の概況を紹介し、史料提供に努める所存である。




近世前期上方の信用と意識構造
――文芸を手掛かりとして――

桑原朝子(北海道大学)


 日本史上、近世前期(十七世紀~十八世紀前期)は、いわゆる幕藩体制の確立に伴い社会が大きく変化する一つの画期であるが、史料上の制約から、法制史の観点からの研究は立ち遅れてきた。確かに近世中期以降と比較すると、この時期に関する狭義の法制史料は乏しい。しかし、当時、文化的・経済的先進地であった京都・大坂などの上方都市で出版された文芸には、金銭貸借、質入、相続等に関する民事紛争や裁判が前後の時代の文芸には類を見ないほど頻出し、特に私法の領域の問題に対する町人達の意識の急激な高まりが窺えることは、軽視しえない。主に近世中期以降になるが、上方、中でも大坂において江戸と異なる私法制度が見られたことは、先学の研究によって明らかにされており、こうした文芸に表れた意識変化は、その基盤を示すものとも考えられる。
 法制度を現実に機能させる上で決定的な意義を持つ人々の意識の問題の解明には、法制史料よりもむしろ文芸の分析が、一層効果を発揮する。したがって、本報告では、当時の文芸の中でも社会構造についての傑出した見通しを示す近松門左衛門の世話浄瑠璃『大経師昔暦』(1715年初演)を中心的に取り上げ、関連のテクスト群と比較分析することによって、そこに表れた様々な信用の問題とそれをめぐる人々の意識を明らかにすることを試みる。信用の問題は、普遍的に見られる一方、そのあり方が当該社会の質を如実に映し出すものでもある。報告では、近松の作品と関連テクストに表れた複数の信用形態について、供与する信用の種類や信用を与える者と与えられる者との関係などに留意しつつ検討し、それを手掛りに、町人社会内部の問題点や、これと支配権力及び在地社会との関係について考察する。
 中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波書店、1984年、初出は1914年)に代表されるように、法制度の実態を知るために文芸を用いることは、以前から法制史の分野でも行われてきたが、これはやや表面的な利用法といえる。本報告では、テクスト間の相違に着目し、より踏み込んだ分析を行うことを通して、近世前期の日本という特定の社会に関する新たな認識を齎すとともに、法制史の対象や手法について再考する手掛りをも提供することを目指したい。




アレクサンデル3世期における婚姻法
――X 4,7,2をてがかりとして――

直江眞一(九州大学)


 1234年に公布された教皇庁公認の『グレゴリウス9世教皇令集』(Liber Extra; X)は、「婚姻を成立せしめるのは合意であって同衾ではない」(consensus non concubitus facit matrimonium)という基本的立場をとりつつ、他方同衾にも一定の法的効果を認めている。すなわち、現在形の言葉を用いての婚姻予約(sponsalia per verba de praesenti)と未来形の言葉を用いての婚姻予約(sponsalia per verba de futuro)を区別し、前者はそれ自体で拘束力を有するのに対して、後者も同衾を伴った場合には解消不能な絆を形成するというわけである。このような高度に技巧的な区別を、かつてF. W. メイトランドは次のように揶揄した。「これは人智の傑作などというわけには決していかなかった。世界のあらゆる人々の中で、恋人達が現在形と未来形を正確に区別することなど最もありそうもないことだからである」、と。
 『グレゴリウス9世教皇令集』の第4編「婚姻」には教皇アレクサンデル3世(在位1159~1181年)の多くの教令が収録されており、その中ではイングランド宛の教令が圧倒的に多くの割合を占めている。本報告においては、1177年に教皇受任裁判官(delegatus)としてのシトー派ファウンテン修道院長と註釈学者ヴァカリウスに宛てて出された書翰(後にX 4,7,2に収録)をてがかりとして、婚姻成立要件としての合意と同衾の関係について再検討してみたい。また、本件より少し前の「アンスティー事件」(Anstey Case)では、現在形での合意を重視するインノケンチウス2世(在位1130~43年)のウインチェスター司教ヘンリ宛書翰が決定的な意味をもたされている。本書翰は同ヘンリのカンタベリ大司教シオバルド宛書翰(1159年2月/60年4月)の中で引用され、さらにシオバルドからアレクサンデル3世に宛てた書翰(1160年10月~11月)において再引用され、最終的にアレクサンデル3世のアンスティー宛書翰(1162年12月)も基本的にこれに依拠しているからである。そこで、「アンスティー事件」におけるアレクサンデル3世の判断を1177年のそれと比較することも、本報告の課題となる。
 なお、史料的検討にあたっては、『グレゴリウス9世教皇令集』以前に作成された『旧五法令集』(Compilationes antiquae)(1190/91~1226年)よりもさらに遡る時期にイングランドで収集された「ウスター集成」(Collectio Wigorniensis)群等の初期の教令集成を主たる対象とする。これら初期の教令集成は『グレゴリウス9世教皇令集』に向けて婚姻法が精緻化されていく前段階において、アレクサンデル3世時代の法を直接反映するものと考えられるからである。




日本中世の裁判における実検使について
――堺相論実検使を中心に――

山本弘(星薬科大学)


 本報告は、中世の裁判において現地調査に派遣された使節の活動実態を明らかにし、当該期における紛争解決の一端を明らかにすることにある。
 公的機関が自己の意思を伝達するために派遣する使節にはさまざまな形態が存在するが、本報告ではその中でも裁判における使節を素材とする。裁判において派遣される使節に関する先行研究は枚挙に遑がないが、そのほとんどが南北朝期以降に恒常化する判決執行のための使節、いわゆる「使節遵行」の成立過程として論じられているきらいがある。端的に言えば、判決が確定する前に派遣され現地調査を行う実検使と、判決確定後に判決執行のために派遣される「使節遵行」とを無前提にひとまとまりとして論じている傾向があるといえるといえる。
 そこで、本報告では両者をひとまず区別して捉えなおしてみることからはじめてみたい。とりわけ、研究が手薄な状況にある実検使の活動実態について、史料に即しながら丁寧に追跡していくこととする。そのうえで、あらためて「使節遵行」の前提として実検使を位置づけることの適否を考え、どのような接続として把握すべきかについて見解を述べたい。なお、実検使の活動そのものの検証はもちろん、実検使派遣にあたってのさまざまなコストについても検討の対象とする。
 また、実検使に関する史料には、土地境界をめぐる相論(堺相論)の現地調査のために派遣された実検使の事例が散見できる。そのなかには、堺相論の性格上、権門間の相論において派遣された実検使の存在も確認できる。本報告では権門をまたぐ土地境界紛争の場合に、実検使の派遣がどのように行われていたのかについてもあらためて整序してみたい。
 以上の作業を経たうえで、判決以前の段階において派遣された実検使の視点から、当該期の裁判を用いた紛争解決の一側面を明らかにしたいと考える。