法制史学会第63回総会のご案内


 法制史学会第63回総会を下記の要領で開催します。ふるってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
 総会等への参加につきましては、同封の振込用紙に必要事項をご記入のうえ、5月13日(金)までに振込手続をお済ませください。お振込の確認には若干の日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守くださいますようお願い申し上げます。
 なお、研究報告に限り、非会員の方々にも当日会場にて参加費をお支払いいただきますと、自由に傍聴していただくことができます。ご関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。

(1)研究報告
  第1日:2011年6月4日(土)午前10時開始
  第2日:2011年6月5日(日)午前9時開始
  会場:立命館大学衣笠キャンパス 存心館3階801教室(案内図をご覧ください)
  参加費:1,500円

(2)懇親会
  日時:2011年6月4日(土)午後6時開始予定
  場所:立命館大学衣笠キャンパス 諒友館地下食堂(案内図をご覧ください)
  会費:6,000円

(3)見学会
  今回は見学会は実施いたしません。

(4)昼食
 衣笠キャンパス内の大学生協の各食堂は、土曜日には一部をのぞいて閉店し、日曜日には全て閉店します。 また、キャンパス周辺には、飲食店が少ないうえ、日曜日に営業している店舗は限られます。 両日とも弁当(1,000円)の御利用をおすすめします。事前にご予約いただいた分のみのご用意となりますので、ご利用の方は同封の振込用紙にてお申込み下さい。

(5)宿泊
  申し訳ございませんが、準備委員会では宿泊のお世話はいたしておりません。

(6)連絡先 ※なるべくE-mailをご利用下さい。

  〒603-8577 京都市北区等持院北町56−1 立命館大学法学部共同研究室内
   法制史学会第63回総会準備委員会(高橋直人・河野恵一・大平祐一)
   電 話:075(466)3027(高橋研究室 大会当日はつながりません)
   当日緊急連絡先:090(1719)3111(高橋・携帯電話)
   FAX:075(465)8294(法学部共同研究室 大会当日はつながりません)
   e-mail: ntt23023@law.ritsumei.ac.jp(高橋・E-mailアドレス)




総会プログラム


 第1日 6月4日(土)

10:00―11:00「戦前日本における地方財政調整制度の立案過程―『内務省案』から『地方分与税制度』に至る政策構想を中心に―」矢切努(大阪大学)
11:00―12:00「清代モンゴルの地域社会と法秩序」額定其労(京都大学)
 12:00―13:00昼休み
13:00―14:00「判決原本に見る日本領事裁判 〜韓国における領事裁判を中心に〜」中網栄美子(早稲田大学)
14:00―15:00「上訴制と王権:"立法者legislateur"と"正す者justicier"〜ルイ9世とポワトゥー伯アルフォンスの司法改革令を中心に〜」薮本将典(慶應義塾大学)
 15:00―15:30休 憩
15:30―16:30「江戸幕府の上方支配――『支配国』の再検討――」小倉宗(大阪大谷大学)
16:30―17:30「後見人選任リーティ市パピュルス文書(西暦557年)の再検討」西村重雄(福岡工業大学)
 18:00―懇親会


 第2日 6月5日(日)

09:00―10:00「日本中世初期における権門裁判と本所裁判」佐藤雄基(東京大学)
10:00―11:00「中国国民政府初期における中国国民党と司法機関の関係」三橋陽介(筑波大学)
11:00―12:00「近代日本におけるドイツ監獄法の導入とその展開―明治41年『監獄法』制定への布石―」姫嶋瑞穂(京都女子大学)
 12:00―13:00昼休み
13:00―15:00総会
  (総会後、休憩)
15:00―16:00「ヴァン・デル・ルッベ法における遡及処罰法理の史的構造」本田稔(立命館大学)
16:00―17:00「宋勅の構造:唐律と慶元勅の比較を通じて」川村康(関西学院大学)
17:00閉会




報告要旨


戦前日本における地方財政調整制度の立案過程
―「内務省案」から「地方分与税制度」に至る政策構想を中心に―

矢切努(大阪大学)


 昨今、地方分権推進論議のなかで、税源委譲、補助金制度、地方交付税という、国―地方の財政関係を構成する三つの要素を有機的に関連付けた改革、いわゆる「三位一体の改革」が議論されている。地方交付税の改革については、地方交付税制度が有する、財源保障機能と財源調整機能という二つの機能をいかに有効・適正に発揮させるか、が論点の一つになっているが、その一方で、地方交付税のような地方財政調整制度の不要論なども提起されている。今後、地方交付税制度をめぐる論議はさらに深められていくものと考えられる。
 周知のように、地方交付税制度の原型を、昭和15年の地方分与税制度に求めることは通説となっている。しかし、戦前日本における地方財政調整制度は、昭和6年に、負担軽減と地方間の財源調整を図る目的で、内務官僚らによってその構想が提唱されたことに始まる。その構想は、翌年に「地方財政調整交付金制度要綱案」、いわゆる「内務省案」として公表された。その後、幾多の変遷を経て、昭和10年の内閣審議会の答申をふまえ、翌11年に一応の応急的施設として、「臨時町村財政補給金規則」が制度化される。さらに昭和12年に、同規則は「臨時地方財政補給金規則」として拡充される。一方、昭和11年には、広田内閣のもと、「馬場税財政改革案」が作成され、恒久的な地方財政調整制度案として発表された。この案は、内閣更迭により実現しなかったものの、昭和15年の税制改正の先駆をなすもので、「地方分与税制度」の原型といえるものであった。こうした戦前日本の地方財政調整制度の歴史的沿革については、既に多くの先学の研究で指摘されている。
 こうした論議の前提として、地方交付税制度の歴史的沿革を検討することは極めて重要であると考える。
 このような諸先学の研究もふまえて、本報告は、従来、十分には考究されてこなかった、戦前日本における地方財政調整制度の立案過程の諸問題を考察することを主な目的とするものである。具体的には、地方財政調整制度の先駆といわれる「内務省案」に示された政策構想と、いわゆる戦時体制下において成立した昭和15年の「地方分与税制度」の政策構想とを比較・検討することにより、その歴史的沿革を再検討したい。その主な内容は、第一に、内務官僚らが両税委譲や義務教育費国庫負担金制度に代わる、新たな地方税制改革論として地方財政調整制度構想を提唱した経緯、及びその構想が「内務省案」に具体化されていく経緯、第二に、「内務省案」に示された政策構想が、他省庁との対抗関係や内閣審議会の議論を通じて次第に変容していく過程、第三に、「地方分与税制度」の立法過程のなかで、「内務省案」に示された政策構想が、どのように論議され、どのような部分が立法・政策に反映され、あるいは修正されたのか、最後に昭和7年の「内務省案」と昭和15年の「地方分与税制度」の意義について明らかにしたい。



清代モンゴルの地域社会と法秩序

額定其労(京都大学)


 清代のモンゴルでは、「盟」(チョールガン)という上位政治機構の下に「旗」と呼ばれる下位組織があった。旗は一定の領域を擁し、その領主たる旗長の職は在地の貴族出身者によって世襲された。旗の全域は数個から数十個の「オトグ」或は「バグ」などと呼ばれる地縁的組織によって構成された。オトグ・バグには、貴族の血縁分枝集団と彼らが保有するアルバト(貢租賦役負担者)を基礎に自生的に形成されたものと、旗長によって行政的に設定されたものとがある。また旗内にはオトグ・バグとは別に、軍事組織である蘇木(定例箭丁一五〇人から成る)があった。オトグ・バグと蘇木の関係については既に岡洋樹氏による研究が存在するが、組織の内部構造や機能に着目しながら両者の位置関係を更に検討する余地は十分にあると思われる。
 モンゴル人は伝統的に貴族身分と、彼らの下でアルバ(貢租賦役)を負担する平民身分とに分かれている。ただ清代では貴族のアルバト数が制度的に制限され、平民は改めて清朝皇帝のアルバトたる箭丁、貴族のアルバトたる随丁、活仏・寺院のアルバトたるシャビナルという風に再区分された。しかしそれにもかかわらず地域によっては伝統的な身分関係がなお維持されることもあった。在地貴族と清朝皇帝のアルバトたる箭丁(及び彼らを編成して作られる蘇木)との関係をはじめとして、貴族の地域政治秩序における役割についてはなお未解明の点が多数ある。
 以上のような組織や身分の機能が現実社会において最も顕著に現れるのは裁判の場であろう。萩原守氏は、旗内の裁判は旗長を裁判官として行われていたと論じられるが、旗によっては旗長以外にオトグ・バグの長や貴族が裁判を行う例もある。裁判制度に関してはモンゴル全体を視野に入れてその実態を解明する必要がある。
 本報告では上で述べた諸問題に注意しながら、旗の内部における政治社会のあり方および法秩序について考察を行う。その際、清代に作成されたモンゴル文の档案資料を用い、幾つかの旗の事情を取り上げて比較検討する。



判決原本に見る日本領事裁判 〜韓国における領事裁判を中心に〜

中網栄美子(早稲田大学)


 本報告では日本が19世紀後半から20世紀初頭にかけて東アジアで行った領事裁判につき、韓国に現在保存されている民事・刑事の判決原本を中心にその紹介と分析を行う。
 西欧諸国が明治・日本で行った領事裁判については、「ハートレー事件」(英人によるアヘン密輸)、「ヘスペリア号事件」(独船の検疫拒否)、「ノルマントン号事件」(英船沈没による日本人乗客溺死)、「千島艦事件」(英商船と日本軍艦の衝突)など多くの事件が条約改正問題と関連して知られている。他方、日本が東アジアにおいて行った領事裁判についてはその法や法制度に関する先行研究はあるものの、実際の事例については史料の所在が掴めぬこともあり、これまでは詳細な研究が行われなかった。
 日本は1875(明治8)年の江華島事件を機に翌1876(明治9)年、李氏朝鮮政府と日朝修好条規を締結し、この条約の中で領事裁判権を得た。日本による韓国における領事裁判はここに始まり1905(明治38)年第二次日韓協約に基づき、領事館が廃止され理事庁が置かれるまで続いた。
 今回2008年から2010年にかけて韓国所在の領事裁判記録に関する現地調査を行ったところ、民事判決原本についてはその一部が最高法院に、刑事判決原本についてはその一部が国家記録院に所蔵されていることが初めて確認できた。
 民事判決については、仁川日本領事館(明治26年〜)や京城日本領事館(明治29年〜)のものが残されており、これらは最高法院図書館記録保存所に原本が保管されているほか最高法院図書館HP上の「旧韓末民事判決集」より一般公開も始まった。刑事判決については京城地方法院検事局所管の日本領事館判決の内、1887(明治20)年より1902(明治35)年に至る簿冊と1903(明治36)年より1905(明治38)年に至る簿冊2冊が国家記録院本館(大田)に保管されているほか、同院によるマイクロ化、電子データ化も行われている。民事判決と異なり、刑事判決については原則非公開であり、学術目的により閲覧にも制限がある。本調査では被告人の氏名・住所など個人を特定する情報を匿名化することで利用を認めていただいた。
 帝国統計年鑑によれば1882(明治15)年の韓国滞在日本人は6,826人に過ぎなかったが、1902年(明治35)年には139,553人と20年間で20倍も増えており、韓国人と在韓日本人、及び、在韓日本人同士の紛争も増加していることが予想できるが、その解決にあたって領事裁判所はどのような役割を果たしえたか。今回所在が明らかになった判決原本は、地域についてはソウル(京城)・仁川、年代については明治20年代以降と限定的ではあるものの、韓国における日本領事裁判につき、民事・刑事双方を揃えることができた。その内容を分析することにより、日本領事裁判の特性が伺えるほか、事件の概要や法の適用、領事裁判に関わる人々など実際の運用に関わる諸側面をある程度明らかにすることが可能となった。
※本報告は科研・若手(B)「近代日本の東アジアに於ける領事裁判に関する実証的研究」(21730011)に基づく。



上訴制と王権:"立法者legislateur"と"正す者justicier"
〜ルイ9世とポワトゥー伯アルフォンスの司法改革令を中心に〜

薮本将典(慶應義塾大学)


 1249年、トゥールーズ伯レモン7世の逝去に伴い、その所領である南仏ラングドック一帯は、アルビ十字軍終結に際して締結された1229年の「パリ和約」に基づき、いわゆる「親王領apanage」として、王弟ポワトゥー伯アルフォンスの支配下に入った。かくして、南仏屈指の領邦principauteとして独立不羈を誇ったトゥールーズ伯領は、伸長目覚ましいカペー朝王権の支配体制に取り込まれたのである。
 フィリップ尊厳王オーギュスト(2世)以来、カペー朝王権がローマ法に通じた側近(レジストlegistes)を積極的に重用し、王の権威をローマ皇帝の絶対権(majestas, merum imperium, plena jurisdictio, auctoritas, plena potestasなど)に擬える形で王国の中央集権化を推進したことは夙に知られているが、そうした絶対権の中核となったのが、ウルピアヌスの法文(Quod principi placuit legis habet vigorem:D.1.4.1pr.)に由来する立法権の概念であった。フランスの法史家J. クリネンは、イタリアの法史家F. カラッソの影響の下、盛期中世におけるこのような立法権の勃興を「立法絶対主義absolutisme legislatif」として視座に据え、フランスにおける学識法droit savantの寄与を積極的に評価している(J. Krynen, L'Empire du roi. Idees et croyances politiques en France, XIIIe-XVe siecle, Paris, Gallimard, " Bibliotheque des histoires ", 1993.)が、近著(Id., L'ideologie de la magistrature ancienne, Paris, Gallimard, " Bibliotheque des Histoires ", 2009.)では、さらに分析系を押し広げ、「法国家l'Etat de droit」と「裁判国家l'Etat de justice」の対置による「至高権souverainete(主権)」のありようと「近代国家の形成過程genese de l'Etat moderne」を、いわゆる「長期持続longue duree」の観点から考察している。
 これらクリネンの所説を綜合すると、盛期中世におけるフランス国王の基本的な属性は、「立法者たる国王roi legislateur」と「正す(糺す)者たる国王roi justicier」であり、両者は不可分一体の関係にある。即ち、王者の務めは、法を作って規範を示すばかりでなく、これを実際に適用することによって「正義を取り戻すrendre la justice(判決を下す=裁判を行う」ことにあり、ここから、立法と司法(=法適用に際しての解釈interpretation)が国王の人格において一体化していたことが伺えるのである。以後、フランスにおいては「権力の非人格化depersonnalisation du pouvoir」が進行し、国王個人の人格とは別個の国家機関たる高等法院parlementが、徐々にこうした機能を国王に代わって担って行くという「緩慢なる剥奪lente depossession」によって、アンシャン・レジーム旧体制を特徴付けることになる。
 かくして、クリネンによる以上の分析は、歴史の現象面よりも理念モデルに重きを置いている、との指摘もあるが、翻ってアメリカの中世フランス史家F. L. チェイエットが、中世ラングドック法史研究の基礎に位置付けられる論文(「各人にその取り分を‐11〜13世紀南フランスにおける法と紛争解決‐」図師宣忠 訳、服部良久 編訳『紛争のなかのヨーロッパ中世』京都大学学術出版会、平成18年、所収)で指摘しているように、13世紀半ば以降のラングドックが、国王主導の法に準拠した規範的裁判による、支配領域の体制への取り込みにおいて王国の他の地域を先導していたとするならば、かの地においてクリネンの分析系は果たして有効であろうか。
 そこで本報告では、1254年に、ルイ聖王(9世)とポワトゥー伯アルフォンスによって相次いで制定されたふたつの「司法改革令」を素材として、この問題を検討して行きたい。けだし、これら両改革令は、その内容の類似(特に「君主:王/伯」を頂点とする上訴制整備条項の模倣性)から、クリネンの分析系との関連で非常な重要性を有すると見られ、新たに王権の支配領域となったトゥールーズ伯領ラングドックにおける、兄王の忠実な代表者たるポワトゥー伯アルフォンスが、それによって確立しようとした支配者としてのイメージとの比較において、カペー朝王権の統治イデオロギー適用にまつわる歴史の一端を素描できるものと考える。


江戸幕府の上方支配――「支配国」の再検討――

小倉宗(大阪大谷大学)


 近世の上方は、山城・大和・近江・丹波の東部四カ国と摂津・河内・和泉・播磨の西部四カ国との八カ国を範囲とし、政治・経済・軍事上、関東とならぶ江戸幕府の拠点地域であった。そこでは、京都・大坂・奈良・堺といった直轄都市が設定されるとともに、それらに所在する奉行(上方奉行)をはじめ、多くの幕府役人が配置された。また、上方では所領が錯綜するため、住民は所領をまたいで活動し、個別の領主では解決できない問題も多数発生した。そこで、上方奉行は、幕府による全国支配の一形態として、国を単位に、所領の区別を超えた広域的な支配(広域支配)を実施するが、こうしたあり方は、江戸や他の遠国にはみられない上方に固有のものである。とりわけ享保期(一七一六〜三六)以降には、京都町奉行が東部の四カ国、大坂町奉行が西部の四カ国を支配するとともに、奈良奉行は大和国、堺奉行は和泉国を対象として各種の裁判や行政を担当した。
 他方、上方奉行が国を単位に広域支配する範囲は、史料上、しばしば「支配国」と表現されたが、この用語は、江戸幕府の上方支配を研究するうえで最重要のキーワードとなっている。「支配国」については、@享保期以降に成立し、京都・大坂町奉行が四カ国単位で支配する範囲とする説や、A近世前期から存在し、一カ国単位と四カ国単位の二層構造をもちつつも、基本的には、奈良や堺を含めた上方奉行が一カ国単位で支配する範囲とする説(その際、東部の四カ国から大和を除いた三カ国や西部の四カ国から和泉を除いた三カ国は、京都・大坂町奉行がそれぞれ一カ国単位の広域支配を複数兼ねたものと理解することができる)、などがある。このように、「支配国」の時期や範囲をめぐっては諸説が並立するが、実際の事例にもとづく本格的な考察はなされていない。
 さらに、享保七年(一七二二)には、それまで京都町奉行が担当していた上方八カ国における地方出入(土地に関する紛争)の裁判のうち、西部四カ国の部分が大坂町奉行に移管されたが、この改革は享保の国分けと呼ばれる。また、幕府の基本法典『公事方御定書』の下巻(「御定書百箇条」)は寛保二年(一七四二)に成立し、宝暦四年(一七五四)に完成するが、その第一条には、江戸の三奉行・評定所とともに、京都・大坂町奉行による東西四カ国の裁判管轄が「享保七年極」のものとして規定されている。このように、京都・大坂町奉行が東西の四カ国を担当する枠組みは、享保七年の国分けによって成立したが、それらと、寛保二年以降に成立する『公事方御定書』下巻の第一条や「支配国」との関係についてはいまだ十分に解明されていない。
 そこで、本報告では、「支配国」に関する史料を系統的に分析し、その成立過程や対象範囲について検討するとともに、「支配国」を手がかりとして、江戸幕府による上方支配のあり方とその歴史的な展開を具体的に明らかにしたい。


後見人選任リーティ市パピュルス文書(西暦557年)の再検討

西村重雄(福岡工業大学)


 東ゴートの支配からイタリアの地を東ローマ帝国ユースティーニアーヌス大帝(在位527−565年)が回復後の557年に、ローマの北約百キロに位置し、帝政初期に既に自治都市であったリーティRieti(ラテン名Reati)市において、後見人選任を内容とするパピルス文書がラテン語で作成され、(冒頭のわずかを除き)極めて良好な保存状態で、今日バチカン図書館に伝わる。この文書は、ふたりの未成熟子の母親が、(少し前に)死亡した父親を相手方とする訴訟を防御する為、その子ども達のために特別後見人を選任するよう書面で市参事会に申請し、参事会が(提示された)後見人を選任し、同時に,保証人を設定させた手続の詳細を、母の代理人、後見人、保証人の求めに応じて、慣行に従い、作成交付したものである。父母、子、父を訴えている原告達は、いずれもノルマン系の名を有するのに対し、後見人、保証人、参事会員はいずれもラテン系の名を持ち、この町では、ゴート系との混住が続いていたことを示唆する。未熟者後見人の選任手続関係の文書は (婦女後見のそれとは異り),FIRA III 28(225年)など、比較的限られるため、本文書は、後見法研究にも貴重な史料とされ、近世以来何度も公刊をみた(たとえば、Marini,Nr.79)が、今日ではスウェーデン学者Jan-Olof Tjaeder の近代的校訂(Die nichtliterarischen lateinischen Papyri Italiens aus der Zeit 445-700, Bd.1,1955年 Nr.7-ちなみに、同書には、本パピュルスとは別に伝承された同時期のいわゆるラベンナ・パピュルスも収録)がもっぱら用いられる。
 本報告では、古典法以来の法学説、法実務、およびユ帝新立法との関係を参照しつつ、1)参事会記録として、ローマ帝国内の自治都市での従来の形式を踏襲していること、2)後見人選任を(イルニ市法(91年) 第29章に伝わる)地方政務官が行うものでなく、参事会自身が行っているとみられること、3)古典法以来、地方政務官(又は参事会)による官選後見人の場合は、担保供与(すなわち、保証人設定)が免除されることがない(担保供与を欠く場合は、一方では、後見人の行為は被後見人に対して効力を持たず、また他方、選任手続を担当した者が、被後見人に対して補充的責任を負う)が、ここでも、参事会員と保証人との間で、後見人による後見事務の適切な実行の保証する契約が、伝統的な用語(spondeo)を使用して、問答契約の形で結ばれていること、4)さらに、保証人は、(マガラ自治都市法(82−84年)第64章にある市事業請負の保証人と同様に)その現在及び将来の財産を担保として提供している(もっとも、FIRA III 18(夫による嫁資返還約束文書、566―573年)などに見られる「判決によるが如く」の文言を欠く)が、主債務者である後見人が負担するとされる自己の全財産に対する黙示抵当(参照、Const.C.5,37,20 314年)との関係は微妙であること、などについて検討を試みたい。


日本中世初期における権門裁判と本所裁判

佐藤雄基(東京大学)


 日本中世社会の特徴の一つに、法圏の多元性・重層性が挙げられる。公権力が朝廷・幕府に多極化する一方で、地域社会では守護・地頭の裁判あるいは現地有力者たちの在地裁判の世界が広がっていた。その中で、中央の大貴族・大寺社ら所謂「権門」は、中央・地域社会を結ぶネットワークの結節点に位置し、中央・地域社会双方に様々な影響力を行使するユニークな存在であった。拙稿a「院政期の挙状と権門裁判」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川出版社、二〇〇八年)や拙稿b「初期中世日本の「裁許状」の機能について」(鈴木秀光ほか編『法の流通』慈学社出版、二〇〇九年)において文書機能論的アプローチによって論じたように、中世初期の紛争解決における「権門」の機能は、調停・口利き(口入)としての性格を有していた。これを「裁判」と呼ぶべきであるかどうかは自明の問題ではないが、権門の営為が朝廷の裁判をモデルとしており、「権門裁判」というべき形式を整備していた点は重要である。「権門裁判」に注目することで、朝廷(太政官)など「公権力の裁判」の研究を相対化することが可能となる。
 この「権門裁判」としばしば同様に扱われながらも、ニュアンスを異にする概念に「本所裁判」がある。従来の研究では、「権門裁判」と「本所裁判」とは必ずしも区別されていなかったが、前記拙稿aでは、必ずしも荘園領主権に収斂しない院政期の「権門裁判」の実態を解明するとともに、荘園制の確立と鎌倉幕府の確立に伴い、訴訟への「権門」の恣意的な介入を制限し、一定の法圏をもつ「本所裁判」が本格的に成立するという見通しを示した。一方、「本所裁判」は日本古代の律令訴訟制度における本司・本主の権限に制度的起源を有するという議論もある。「権門裁判」ないし「本所裁判」の関係を論じた以上、奈良・平安前中期に遡って、両者の淵源を検討するという作業が課題として残されていた。そこで本報告では「権門裁判」ないし「本所裁判」をめぐる学説史・研究史を整理しつつ、制度・実態双方において両者の淵源を探り、院政期以降との異同やその社会的背景を論ずる。そして古代から中世への日本社会の展開について法史的な観点から一定の見通しを示したい。


中国国民政府初期における中国国民党と司法機関の関係

三橋陽介(筑波大学)


 第一章 党国体制の政治構造
 第二章 中央司法機関と地方各級司法機関
 第三章 「司法の党化」の理念と背景
 第四章 党組織の司法機関への関与

 本報告は、中国国民政府の司法制度を通底する「司法の党化」に着目し、その現れともいえる党組織が司法機関に関与した特別法の体系を検討することで、中国国民政府初期(1928年〜1935年)における中国国民党と司法機関の連携を明らかにすることを試みる。
 当時、中国国民政府の司法当局は、外向けには西洋近代法的な、いわゆる「近代化」の司法制度を模索しつつ、内向きには党国体制の維持に資する中央集権的な司法制度を構築したいと考えていた。ここでいう党国体制(party-state system)とは、党と国家が一体化した一党国家体制(政党国家)を指し、そこから創出された「司法の党化」(原文では「党化司法」、「司法党化」、英訳では"partyizing the judiciary")は、「司法は党の決定する政治の下にあるべき」とする理念である。中国国民政府の司法行政は、この「司法の党化」を推進する勢力と、西洋近代法的な「司法権の独立」を希求する勢力のせめぎ合いにより運営されてきたといえる。なお、二つの潮流の勢力変化の転換点となるのは、1930年、1934年、1943年と三度にも及ぶ司法行政部の所管変更である。この時期区分に注意して考察を進める。
 第一章では、「党を以って国を治す(以党治国)」とした、いわゆる訓政期の政治構造を、孫文の「建国大綱」からの経緯と、三民主義、五権憲法の理論から読み解き、三権分立ではない党治下の司法の位置づけを提示する。
 第二章では、中央司法機関と地方各級司法機関の構造を整理することで、司法制度の全体像を抽出する。組織規程等を参照することで各級司法機関の構造と立法上の効力を把握する。成文化されない状況については、往来書簡や報告書、法学雑誌などを参照する。
 第三章では、徐謙や居正が唱えた、三民主義司法とも称される「司法の党化」の理念と、それが党治下の司法の方針となる背景を説明する。訓政期において中国国民政府は、中国国民党の統一指導・一党独裁の貫徹を図るべく、社会全般の党化(政治化)を目指していた。そうした党化政策の流れは司法にも波及し、「司法の党化」という形で具現化した。
 第四章では、中国国民党が、中国共産党員などが関わる政治性の高い案件については、陪審制や反省院など制度的に合法な経路を確立して処理にあたっていたことを提示し、恒常的な司法機関への関与を明らかにする。反省院とは、逮捕した中国共産党員らに、「反省」を促し、寝返らせるための特殊な拘置機関である。反省院は、各省高等法院に直属する司法機関であるが、事実上、党組織の情報機関(中統)の指揮下にあった。
 本報告では、党史館(台北)、国史館(台北)、第二歴史?案館(南京)等に所蔵される旧司法文書を用いて検討を行う。


近代日本におけるドイツ監獄法の導入とその展開
―明治41年「監獄法」制定への布石―

姫嶋瑞穂(京都女子大学)


 本報告は、明治中期におけるドイツ監獄法の導入と日本監獄行政への影響について解明することを主たる課題とする。
 周知のように、明治22年(1889)2月、法制度の基盤となる大日本帝国憲法が発布され、我が国は法治国家としての体裁を一応整えることになった。大日本帝国憲法がドイツ法を範としたために、我が国の法学の潮流は憲法制定前後からドイツ法重視へと急速に変容を遂げることになる。このような法学の動向を背景に、明治政府は長年の懸念となっていた条約改正実現のためにとくに警察・監獄整備を本格化させていく。明治22年、内務省はドイツ法に倣った日本獄制改革のためにドイツ監獄吏ゼーバッハ(Kurt von Seebach)を招聘し、行刑先進国の視点から日本監獄を調査させるとともにドイツ法を基調とする獄制指導にあたらせた。ところが、ゼーバッハが明治24年に急逝したことにより、ゼーバッハの訳官を務めた小河滋次郎が獄制改革の中核を担うことになった。
 ゼーバッハの獄制改革を引き継いだ小河は、明治28年6月、パリで開催された第5回国際監獄会議に出席後、ドイツの代表的監獄学者でありゼーバッハの師でもあったクローネ(Karl Krohne)の指導を受けるべく留学生活に入った。小河はクローネのもとで監獄巡閲随行・大学聴講に従事し、最新の獄制調査を通じて日本監獄の発展を推進し、明治41年「監獄法」の土台を築いていくことになる。
 以上の経緯に関して先行研究では基本的史実の解明に力点がおかれてきた。しかしながら、そもそもゼーバッハやクローネがドイツ監獄法の日本獄制への有用性をどう理解していたのか、さらにクローネ、ゼーバッハ、小河へとドイツ監獄法が継受される過程でいかなる変容を遂げ日本獄制との調和が図られたのか、このような基底的概念にかかわる問題設定はほとんどなされてきていない。これらの点を明らかにすることは、明治41年「監獄法」制定をめぐる基本方針を把握するうえで重要な意義がある。本報告では、先行研究で十分に検討されることのなかったクローネ、ゼーバッハ及び小河の行刑処遇を中心とした監獄理論の比較に焦点をあて、ドイツ監獄法が日本にどのように導入されたのかについて考察するとともにその後の監獄関係諸法にいかに反映されたのかについて検討する。


ヴァン・デル・ルッベ法における遡及処罰法理の史的構造

本田稔(立命館大学)


 1933年1月30日にヒトラーが首相に就任し、2月27日にオランダ共産党員マリヌス・ヴァン・デル・ルッベがドイツ国会議事堂放火の嫌疑で逮捕され、12月23日に帝国裁判所で死刑の判決が言い渡された(刑の執行は翌年1月10日)。2月27日の時点では放火罪の最高刑は終身刑であったが、翌日の2月28日に帝国大統領令が出され、最高刑が死刑に引き上げられた。大統領令はその遡及適用の可能性を明示的に定めていなかったが、授権法(3月24日)に基づいて政府制定法として初めて制定された「絞首刑と死刑の執行に関する法律」(いわゆるヴァン・デル・ルッベ法)は、大統領令をヒトラーが首相に就任した翌日の1月31日から2月27日までに行われた放火行為にも遡及適用できることを定めた。帝国裁判所はこの2つの法律にもとづいてヴァン・デル・ルッベに死刑を言い渡し、それを執行したのである。放火罪の最高刑を引き上げた大統領令は、ワイマール憲法が妥当している時期に発布されたものであり、ヴァン・デル・ルッベの放火行為にそれを適用することは、ワイマール憲法116条と刑法(旧)2条1項によって禁止された刑罰法規の遡及適用である。しかし、授権法によりワイマール憲法の効力は停止され、刑罰法規の遡及適用(とくに被告人に不利益な遡及適用)を阻むものはなくなった。従って、授権法に基づいて制定されたヴァン・デル・ルッベ法によって大統領令を遡及適用することに何の障害もなくなった。大統領令に遡及効を付与し、罪刑法定主義を破壊したヴァン・デル・ルッベ法は、文字通り典型的なナチス刑事立法として刑法史に刻印されている悪法である。このような認識がドイツ刑法史の通説的理解である。
 本報告は、大統領令の遡及の可否に関する刑法学者の意見やヴァン・デル・ルッベ法に関する帝国裁判所の認識を整理しながら、ヴァン・デル・ルッベ法における遡及処罰法理の史的構造を分析することを目的としている。大統領令に遡及効を付与したヴァン・デル・ルッベ法は、授権法がなければ制定されなかった法律であるが、刑法学者の意見や帝国裁判所の認識によれば、遡及処罰は授権法がなくても行えたと論ぜられている。もしそうであるならば、ワイマール憲法116条の「罪刑法定主義」は刑法(旧)2条1項に規定された罪刑法定主義とは同一のものではないことになる。また、ワイマール憲法の「罪刑法定主義」がヴァン・デル・ルッベ法の遡及適用を禁止していないならば、一方でワイマール憲法の刑法原理とナチスの刑事立法とは断絶の関係にありながらも、他方で連続している側面があるということができる。このような歴史の考察を通じて、ドイツ刑法史の通説的理解を批判的に検証することを試みたい。


宋勅の構造:唐律と慶元勅の比較を通じて

川村康(関西学院大学)


 1999年に発見され、2006年に公刊された天聖令残本は、主として唐令・日本令復原研究の観点から活用されてきたが、稲田奈津子氏による慶元条法事類との比較研究は、唐令・天聖令と元豊以後の宋令との間に断絶関係を見出す理解を修正するに至った。儀制、假寧の両篇目について、唐令・天聖令と慶元令の間、さらには慶元格・慶元式との間にも、かなりの程度で対応・継承関係が存在することを立証したのである。この見解は、報告者による捕亡、獄官−断獄、雑の三篇目についての対応検証によって補強されている。稲田氏の研究は、天聖令残本を宋代法制史研究の一有力史料として活用する道を開いただけではなく、慶元条法事類の再検討と再活用の可能性をも示したのである。
 他方、唐律・宋刑統と元豊以後の宋勅とについては、前者を刑罰基本法典、後者を刑罰副次法典とする理解が一般的となっている。それらの関係づけは、政和・慶元の名例勅各一箇条に、勅が規定を欠くか、その規定間に矛盾がある場合には律の規定を適用すると定められていることを示すことによってなされてきたのであり、具体的な対応条文を提示した研究は数少ない。また、慶元条法事類に遺された慶元勅の条項には正文とも節略文ともつかない不可解な構造をもつものが多い。そのことも同書の活用を阻んできた一要因であろうが、宋勅のそのような構造は、その唐律との関係に基礎づけられたものであることを理解しておく必要がある。
 本報告は、慶元条法事類に遺された慶元勅と唐律との対応検証によって両者の関係を再検討するとともに、この再検討を通じて宋勅の構造を理解しなおすことを課題とするものである。
〔主要参考文献〕
 稲田奈津子「慶元条法事類と天聖令:唐令復原の新たな可能性に向けて」大津透編『日唐律令比較研究の新段階』山川出版社、2008
 梅原郁「唐宋時代の法典編纂:律令格式と勅令格式」『宋代司法制度研究』創文社、2006
 滋賀秀三「法典編纂の歴史」『中国法制史論集:法典と刑罰』創文社、2003
 川村康「宋代用律考」池田温編『日中律令制の諸相』東方書店、2002
 川村康「宋令変容考」『法と政治』62巻1号、2011

以上