法制史学会第60回総会のご案内


 法制史学会第60回総会を下記の要領で開催いたします。ふるって御参加下さいますよう、御案内申し上げます。
 総会等への参加につきましては、同封の振込用紙に必要事項を御記入の上、4月4日(金)までに振込手続を済ませていただきますようお願い申し上げます。振込の通知が準備委員会事務局に到達するのに若干日数がかかりますので、万一直前に振込手続を取られた場合には、お手数ですがFAXまたは電子メールでその旨お知らせ下されば幸いに存じます。
 なお、研究報告に限り、非会員の方々も当日会場にて参加費をお支払いいただきますと、自由に傍聴していただくことができます。御関心をお持ちの方々の御来場をお待ち申し上げております。

 1.研究報告
 第1日目  2008年4月19日(土曜日) 午前10時開始
 第2日目  2008年4月20日(日曜日) 午前10時開始
 会  場  名古屋大学IB(アイビー)電子情報館2階大講義室
       (以下の名古屋大学建物配置図の65番になります。)
 参 加 費  1,500円

 2.懇親会
 日  時  2008年4月19日(土曜日) 午後6時20分開始予定
 会  場  名古屋大学内レストラン「花の木」
       (以下の名古屋大学建物配置図の10番「東山グリーンサロン」内になります。)
 参 加 費  6,500円

 3.見学会
 日  時  2008年4月21日(月曜日)。午前9時名古屋大学を出発、午後4時30分頃JR名古屋駅前にて解散の予定(旅程や見学地につきましては、末尾の頁を御参照下さい)
 参 加 費  6,500円

 4.昼 食
 大学構内の食堂は、土曜日は一部営業していますが、日曜日は全て営業していません。近隣に小規模な飲食店が若干あり、また学会会場建物内の喫茶「IBカフェ」では飲物のほか軽食をお取りいただくことも可能ですが、いずれも混雑が予想されますので、両日とも弁当(1,200円)の御利用をおすすめします。事前に御予約いただいた分を用意しますので、御利用の方は振込用紙にてお申込み下さい。

 5.宿 泊
 申し訳ありませんが、今回は準備委員会では宿泊のお世話はいたしておりません。

 6.準備委員会の連絡先

 〒464-8601 名古屋市千種区不老町
       名古屋大学大学院法学研究科
       法制史学会第60回総会準備委員会
       (石井三記・宇田川幸則・神保文夫・中村真咲)
  電 話:052(789)5044(石井研究室)
      052(789)2305(神保研究室)
  F A X :052(789)4900(文系事務室)
  E-mail:houseishi60@nomolog.nagoya-u.ac.jp
  (なるべくFAXかE-mailを御利用下さい)




総会日程


 第1日目 4月19日(土曜日)

10:00〜11:00近世庶民の法的知識・技術とその伝播──飛騨地方の郷宿を中心として中舎林太郎(名古屋大学)
11:00〜12:30イングランドの裁判官と裁判──1176-1307年ポール・ブランド(オックスフォード大学)
12:30〜13:30昼休み、企画委員会
13:30〜18:00ミニ・シンポジウム「法と正義のルプレザンタシオン──法制史における図像解釈の新たな可能性」
 13:30〜13:45〔趣旨説明〕石井三記(名古屋大学)
 13:45〜14:25ジェイムズ・ギルレイ『巡回陪審裁判開廷時の床屋風景』を読み解く深尾裕造(関西学院大学)
 14:25〜15:05法図像がある場の諸相──ドイツ法図像研究の過去、現在、未来井上琢也(國學院大学)
 15:05〜15:45明治初期の裁判所建築について細野耕司(愛知工業専門学校)
 15:45〜16:25沈黙の法文化──近代日本における法のカタチ岩谷十郎(慶応義塾大学)
 16:25〜16:45休 憩
 16:45〜17:00〔東洋法制史からのコメント〕川村康(関西学院大学)
 17:00〜17:15〔建築史からのコメント〕西澤泰彦(名古屋大学)
 17:15〜18:00討論
18:20〜懇親会


 第2日目 4月20日(日曜日)

10:00〜11:00明治23年水道条例の成立──水道事業の『公営原則』と『衛生』小石川裕介(京都大学)
11:00〜12:00ギールケの連邦国家論遠藤泰弘(北海道大学)
12:00〜13:00昼休み
13:00〜14:40総会、理事会
14:40〜15:40ヨーロッパ中世における封建制と国家研究の現在佐藤彰一(名古屋大学)
15:40〜16:00休 憩
16:00〜17:00記憶と歴史──唐王朝の律令制度と王権儀礼妹尾達彦(中央大学)
17:00〜17:30美濃西部の地域的特質をめぐって秋山晶則(岐阜聖徳学園大学)
17:30閉 会




報告要旨


近世庶民の法的知識・技術とその伝播〜飛騨地方の郷宿を中心として〜
中舎 林太郎(名古屋大学)


 江戸宿及び各地の郷宿−いわゆる公事宿−に関する研究の進展は、この近年著しいものがある。また公事宿以外にも、筆工、用聞、郡中惣代など庶民身分でありながら法的知識・技術を有する者が少なからず存在していたことが明らかにされてきており、近世社会において彼らが果たしていた役割等について様々な角度から論じられている。しかるに、彼らの法的知識・技術なるものがどのようにして習得・保持・伝授されたか、いわばOn the Job Trainingの具体的なあり方にまで踏み込んで分析したものはこれまでなかったように思われる。また、従来の研究の多くは筆工、用聞等についてその存在形態や職務などが個別に検討されるにとどまる傾向にあったように思われるが、近世社会において彼らの法的知識・技術は相互に無関係に成り立っていたものであろうか。
 飛騨地方における庶民の法的知識・技術に関する研究としては、冨善一敏「文書作成請負業者と村社会―近世飛騨地域における筆工を事例として―」(高木俊輔・渡辺浩一編著『日本近世史料学研究―史料空間論への旅立ち―』所収、北海道大学図書刊行会、2000年)があり、高山の筆工を中心にしながら、高山の郷宿および郡上藩の書役についても言及がみられる。しかし、この地方において法的知識・技術を有していたのは郷宿や筆工・書役のみではない。飛騨国は元禄5年(1692)金森氏が転封となり、その後幕府が郡代を置いて重視した地域であり、特に高山はこの地方の中心地として栄えた重要な都市であった。そのため、取引などに伴う紛争がおこり、それに伴い郷宿や筆工が必要とされた。それに加え、取引や紛争に関わる範囲で町村役人や商家の手代も法的知識・技術を有していた。
 本報告においては、まず飛騨地方における郷宿についての制度・沿革について検討を行う。同時に郷宿のみではなく、町村役人や筆工、商家の手代など郷宿と職業上交流があった者たちについても考察を加える。次に彼らが有していた法的知識・技術がどのようなものであり、それがどのように伝播していったのかという点に関し検討を行なう。郷宿は文書による引継ぎや幕府・藩役人からの吸収などの手段によって法的知識・技術を会得し、情報交換によってその質を高めていった。そのようにして得た法的知識・技術は、郷宿が活動することによって町村役人や筆工、商家の手代などに伝播していくこととなる。このようにして、飛騨地方及びその周辺地域では、高山の郷宿を中心として、庶民の法的知識・技術の地域的・職業的ネットワークというべきものが形成されていたことを明らかとしたい。


イングランドの裁判官と裁判 ―― 1176‐1307年 ――
Paul Brand(直江眞一訳)


 12世紀後半から13世紀にかけてイングランド王国全体に共通のコモン・ローが出現したことは、この時期に全く新しいタイプの一連の国王裁判所が創造されたことと密接に関連している。この国王裁判所には様々な特徴があった。その1つは、それを動かしていたのが、国王によって任命され、自らの裁判所において判決を下す権限を有し、1年の大半を裁判活動に費やす裁判官だったということである。このような裁判所とその活動に関する残存史料は、その機能の最初の段階(1190年代半ばまで)では比較的少ないが、第2段階(1272年頃まで)になるとかなり多くなり、第3段階(1272年頃から1307年)ではさらに多くなる。本講演は、当該時期のこの新しい国王裁判所における裁判官の機能のいくつかの局面に注目するものである。
 議論の対象としては、個々の裁判官が、任命された裁判所に在席していたか、いなかったかをつきとめる際に生ずる若干の史料上の問題がある。また、複数の裁判官から構成される裁判所の活動に関する証拠もまた検討対象となる。そのような裁判所は次のことを示唆している。すなわち、13世紀後半までには、国王裁判所の中には、その業務をいくつかの裁判官の集団の間で非公式に分担させ、また、裁判官が活動を行うにあたって裁判所所属の年長の書記達に規則的に補助業務を委ね、さらに、困難な事件のために必要とされる時には他の国王裁判所から仲間の応援を求めるものがあったということである。国王裁判所の活動のうち訴訟手続に関する部分の多くは、裁判所による正式の判決を必要とした。しかし、その場合もイニシアチブは裁判所というよりも訴訟当事者にあった。裁判官は、1週間続く「復命提出日」(return days)に、事件が訴答(pleading)に回される順番を決めていたに相違ない。また史料からは、裁判官がしばしば訴答において積極的な役割を演じていたことが推測される。すなわち、当事者の弁論(arguments)に助言を与え、事実の許容(admissions)を求め、暫定的異議(tentative exceptions)について判断を下し、その結果、適切な問題だけが陪審に委ねられるようにしたのである。13世紀後半までには、ほとんどの証明は陪審審理の形をとるようになり、裁判官の役割は次の点で重要になった。すなわちそれは、陪審に対して評決に到達するまでには何を考慮しなければならないかを教示する予備的な陪審に対する説示において、また陪審が評決を下した時に陪審に対する質問(interrogation)を通してである。常に、単独の裁判官が裁判所を代表して最終判決を下していたようであるが、裁判官仲間の間での非公式的協議がどの程度それに先立って行われていたかは明らかではない。裁判所における手続は、おそらくは新しい国王裁判所の創設の時点から、ブリテン島に独特のフランス語〔ロー・フレンチ〕で行われたが、裁判所の裁判官毎に作成された別々の訴訟記録集(plea rolls)にはラテン語で記録された。本講演はまた、紛争の平和的解決における裁判官の役割、法教育における役割、立法において裁判官が果たした役割についても簡単に考察する。




ミニ・シンポジウム

「法と正義のルプレザンタシオン――法制史における図像解釈の新たな可能性――」


趣旨説明
石井 三記(名古屋大学)


 わが国において、2004年度から発足した法科大学院は、良くも悪くも、法学の教育研究全般に大きな影響を与えている。基礎法学の分野にある法制史研究者のあいだでの危機感は、一方では、これまで積み上げてきた学問の継承が制度的になされるのかという深刻で喫緊の問題もあるが、他方では、新しい事態に対応するような法制史の研究教育の成果、そして魅力あふれる法制史の研究教育の方法を開発しなければならないとの思いも、もたせるようになったのではないだろうか。
 今回のテーマは、一見逆説的なのかもしれないが、法科大学院時代の法制史学の分野において、研究教育の両面で新しい問題関心をひきつけたいとの願いがこめられている。当日のミニ・シンポジウムでは、ルプレザンタシオンが「上演」という意味もあることに留意しつつ(つまり、法・正義の舞台装置たる法廷建築やアクターとしての法律家の衣装などに注目して)、趣旨説明のあと、まず英独の西洋の側の報告からスタートし、近代日本の裁判所建築の様式を具体的に取り上げ、また単なる絵解きにとどまるべきではない図像解釈の批判的な検討ならびにシンボル学の過去と現在を踏まえた方法論的な問題提起もなされる。そして4人の報告を受けて、東洋法制史と植民地建築史からのコメントをしていただき、討論に入る予定である。このように、このミニ・シンポジウムは、西洋・日本・東洋の比較ということのほかに、法制史と建築史のアプローチの比較も浮き彫りになり、法制史研究における図像解釈の意義を考える機会となるだろう。

ジェイムズ・ギルレイ『巡回陪審裁判開廷時の床屋風景』を読み解く
深尾 裕造(関西学院大学)


 百聞は一見に如かずではないが、図像資料は、文献資料と異なり、予備知識の量や文化、言語の壁を越えて、全体状況を一目瞭然に印象として理解させる力を持っている。それ故に教育目的で利用されることも多い。報告者もそうした面から図像を利用するようになったが、図像資料の情報量の多さが有する価値は単に教育面に留まるものではない。印象が強烈で誇張もあるだけに、騙し、騙されないように注意深く扱う必要もあるが、公文書やその他の文書資料では容易に知り得ない各時代の法廷の様子や法意識の有り様を理解する鍵を提供してくれるように思われる。
 近年社会史研究でよく利用されるようになったホガース(1697-1764)、ギルレイ(1756-1815)、クルックシャンク(1792-1878)、さらに1841年創刊のパンチ掲載諷刺画等は、一八世紀から一九世期にかけての民衆の法意識や法生活の有り様を活写する貴重な素材であろう。本報告では、ギルレイの最後の作品となった伊丹市立美術館所蔵「巡回裁判開廷時の床屋風景」を読み解く中で、一八世紀末から一九世紀初期にかけて巡回裁判所が果たした役割、「法の支配」の在り方とその変化について検討してみたい。この作品を読み解く過程において、その背後にある公権力と正義が顕現すべき場としての処刑場や裁判所建築の変化を別の図像資料を通して明らかにする。また、上記床屋風景でもウィッグが法曹の特徴的スタイルで示されているが、ブレア政権以降の「法の近代化」、EU化政策を背景に、今年度から刑事裁判以外で裁判官はウィッグを着用しないこととなった。ウィッグは一八世紀の遺物で、刑事事件における着用が残ったのは単なる政治的妥協なのか、ウィッグ着用の持つ意味を、ウィッグの先行形態と見なされるコイフの歴史を参考に再検討し、最後に、人間による審判、正義の行使がどの様に了解されるのか、正義の女神とともに用いられる、時の翁、真理の図像の果たす役割を考えることによって、この作品に含まれるもう一つの意味を考えてみたい。


法図像がある場の諸相−ドイツ法図像研究の過去、現在、未来−
井上 琢也(國學院大学)


 本報告は、ドイツにおける法図像研究の最新成果を手元に置いて、法や裁判に関する図像、シンボルがどのような場にあり、どのように使われてきたかを検討することを経由して、これからの法図像研究の展望を開くことを目的とするものである。
 法令集、裁判記録、法学テクスト、法制史や美術史の研究書、法廷等々、様々な場に法図像は遍在しているが、まず、Volkach市の法判告録上の16世紀初頭の法廷図像を取り上げ、SchulzeやSchildら、現在の法図像研究をリードしている研究者が近世初期の法図像を用いて何を語ろうとしているかを紹介してみる。また、貸金契約をめぐって15世紀から16世紀にかけて数多く作成された中傷状(Schmähbrief)上の豚や絞首の図像がどのように使われ、どのように機能していたかを検討したLentzの研究をもとに、歴史人類学的手法が法史研究に何を語りかけているのかを確認する。
 次に、ファシズム期のドイツ法図像研究が語ろうとしたことを、市場に立つRoland像や法廷の過渡的形態としてのGerichtslaube建築を手がかりに検討してみる。この時期の法シンボル、法考古学研究者たちは、法の表徴(Wahrzeichen)としての「祖先の遺産」を収集することに邁進したが、その代表者の一人Herbert MeyerのHandgemal論を中心において、彼らが裁判に関わる遺産を使って語った「非歴史的」言説について紹介してみたい。 法図像研究の現在と過去の陰陽を踏まえ、最後に、情報ネットワーク社会が促す「法学の視覚化」に対応して、法図像を携えた法史研究がこれから分け入るべき場を、Johannes Bunoが17世紀に提案した「法の記憶術」を参考にして展望してみたいと思う。


明治初期の裁判所建築について
細野 耕司(愛知工業専門学校)


 廃藩置県後、中央集権の確立と共に司法省が設置され、府県が管轄していた司法権を司法省が接収し、全国の法律の統一を目指した。それに伴って新たな司法施設が必要となった。中央の司法庁舎は初め北町奉行所に設置され、後に旧藩邸を修繕して仮庁舎とした。庁舎には白洲(法廷)を設け、白洲は庭に接する位置から、建物の内部に移った。
 最初の海外視察は明治4年2月から同年8月に行われた英国領香港・シンガポール視察で、監獄と裁判所の体裁と方法を視察した。視察した裁判所の法廷は陪審法廷であった。シンガポールではマクネール少佐と面会した。彼はシンガポール最高裁判所の増築工事や監獄の設計監督を担当していた。
 司法省は府県裁判所の設置を急ぎ、先ず東京府に置き、東京周辺と京都・大阪・の関西に設置し、次に開港場、薩長土肥の旧四藩に設置した。更に、騒動のあった九州に裁判所が集中的に配置した。
 最初に裁判所と称された東京裁判所(明治8年7月10日落成)は裁判所庁舎を中心に両側に下調所、呼出人控所を並べ、裁判所は1階に白洲(法廷)を4室、2階には事務関係の諸室を配置していた。設計者は旧松代藩士の宮下智幹、後に司法省営繕課に移籍し明治23年まで在籍した。やがて裁判所の形式は類似するが、熊谷裁判所(明治7年6月)や横浜裁判所(明治8年1月)など特徴ある裁判所もあった。大審院(明治10年3月18日落成)の本庁は木造2階建、1階に大法廷2箇所、中法廷2箇所設け、2階は事務室及び院長室等であった。東京上等裁判所(明治11年3月12日落成)は本庁、下調所、呼出人控所、湯呑所、門候所、門から成り、周囲を角柵又は丸太柵で囲っていた。本庁を中心に左右対称形に配置した裁判所の基本的形式であった。区裁判所計画案(明治5年4月13日伺)裁判所は西洋造庁舎、囚獄、腰掛、西洋風表門で構成されていた。庁舎は1階に事務室関係の諸室、その両脇に法廷(計6ヶ所)を設けていた。
 初期の法廷は、明治3年頃までは江戸時代の奉行所の白洲形式を踏襲していた。香港・シンガポール視察後にはU字型の法廷(陪審法廷)に変化した。明治15年になると法廷はU字型から直線型になり、民事と刑事の法廷にわかれた。明治25年には現在の法廷に近い形式となった。本庁は木造2階建、1階に大法廷2ヶ所、中法廷2箇所、小法廷8箇所、2階は事務室関係を配置していた。


沈黙の法文化−近代日本における法のカタチ
岩谷 十郎(慶應義塾大学)


 ある時、法のカタチを描いてみよとの課題を唐突に学生に出してみた。この「あり得ない」アンケートに教室はザワつき、その結果少なからずの学生が「解答不能」との答えを寄こした。なるほど、学校の問題には恒常的に正答があるものと信じきっていた彼らであれば無理もなかろう。そもそも法のカタチを問う論点など法学のどの教科においても出くわすことはない。ならば問いの立て方自体が間違っていたのであろうか。
 本報告で対象とする「法」とは、「書かれた法」ではなく「描かれた法」である。近代日本の建築・彫刻・絵画といった表象文化においてイメージされた「法・正義」の中に、その表象の形成とその背景たる社会・歴史的文脈との接点を見いだしてゆく方法の一端を提示してみたい。とくに、近・現代の日本において、「法・正義」をシンボライズするためにどのような表象が現れてきたのかという問題視角を強調するために、西欧におけるユスティティア(Justitia/法・正義の女神)の図像を比較の対象として取り上げることにしたい。
 報告では、西欧におけるユスティティアの定型的イメージの形成過程について多言はできない(下に掲げる拙編著を参照されたい)。また、ユスティティアが西欧の豊饒な法表象文化をひとり代表するものでもなかろうが、西欧法の継受とともに西欧の法の女神を受け入れた我が国が、いかなる法的シンボル性を発現する独自のカタチを今日まで形成し得たのか、類型的な手順で述べてみることにしたい。
 なお報告では、OHPないしは書画カメラなどを用いて図像を実際に紹介し解説・解釈を加えながら説明を進めてゆく。それらの表象のもつ感覚的・情緒的効果をも考慮しつつ、日本における法のカタチとは既定・既知のものとして与えられているわけでは決してなく、一定の方法的視角の下に我々自身が発見してゆくものであることを伝えてみたい。すなわち正答は一つばかりではないということである。

〔参考文献〕
 森征一・岩谷十郎他編『法と正義のイコノロジー』慶應義塾大学出版会、1997年
 岩谷十郎「法的象徴空間としての最高裁判所」(上掲書所収)
 IWATANI Juro, The Supreme Court as A Repository of Legal Symbols - Images of Law and Justice in Modern Japan, in: Keio Law Review, no. 8, 1995
 IWATANI Juro, Images de la justice dans le Japon moderne, lu au séminaire pluridiciplinaire sur le Japon à l'EHESS, 1999(texte non publié)





明治23年水道条例の成立 水道事業における「公営原則」と「衛生」
小石川 裕介(京都大学)


 近代日本における水道事業は、原則として市町村がその事業主体であった。これは、近代水道事業の開始とほぼ同時期に成立した、明治23年水道条例の規定に由来する。その第2条は「水道ハ市町村其公費ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ布設スルコトヲ得ス」として、私営による水道事業を禁じたものであった。明治44年改正以降、私営水道事業は一部容認されるものの、この条文の趣旨は、水道事業の「公営原則」「市町村優先主義」として、現行水道法にも引き継がれいている。
 対照的に、同時代の都市における他の公益事業、たとえば電気・ガス・市街鉄道事業などに関しては、主として私営によって担われてきた。そしてこれらの事業は絶えず、公営事業と公営化に関する議論と試みにさらされ続けていたのであるが、この事業主体という点において、水道事業は他の事業とは異なる、特異な位置付けにあるといえよう。
 しかしながら、その特殊性を創出した水道条例の成立過程に関して、従来研究においては、主に東京市区改正の論議の、やや付随的な文脈として語られることが常であった。そのため、上記「公営原則」がどのような経緯で生み出され、条文上に反映されていったのかということについて、未だ詳細な論考はほとんどされていないままである。
 本報告においては、その立法を主導した内務省衛生局を中心として、水道条例の成立過程を検討する。
 明治期初期から猖獗を極めていたコレラなど水系伝染病に対して、「衛生」という新たな概念を以て対応に当たろうとしたのが、初代局長の長与専斎を中心とした内務省衛生局であった。近代的上下水道の導入はその根本的解決手段であると当時から見なされており、その速成を図った内務省衛生局は私営水道事業法案の作成に着手する。しかしながら、最終的に成立したものは、私営を排除するという、上述の水道条例であった。
 水道条例の制定過程の中で、内務省衛生局がどのような意図を以て「公営原則」と「衛生」の論理を使用し、そしてなぜ、結果的に私営水道事業は排除されてしまったのかという考察を通じて、近代日本における公益事業のあり方の一端について検討したい。


ギールケの連邦国家論
遠藤 泰弘(北海道大学)


 本報告は、第二帝政期ドイツにおいて活躍した法学者オットー・フォン・ギールケの連邦国家論を、当時の支配説であったパウル・ラーバントの連邦国家論と対比することを通じて、ギールケ政治理論の「中途半端さ」を消極的に強調する従来のギールケ解釈を再検討しようとするものである。そのために、まずギールケ政治思想の発展過程を瞥見した上で、当時の国法学にとって最も重要なテーマの一つであった、ドイツ帝国の政体評価をめぐるラーバントとの論争を分析する。具体的には、まず1880年代中頃までのギールケの著作を時系列的に跡づけ、『ドイツ団体法論』第1巻に見られる最初の部分的な構想が第2巻以降にも発展的に引き継がれ、ギールケの国家論はむしろ『アルトジウス論』および第3巻、さらにはラーバント批判論文において完成したと言えることを指摘する。ここでは、ギールケが、中間団体の排除を帰結するホッブズからルソーに至る英仏の自然法理論の系譜にではなく、個人と国家の間に中間団体(自由な結社)の媒介を認めるようなアルトジウスを中心とするドイツ自然法論を導入し、家族、職能団体、自治体、州といった諸種の中間団体により個人と国家を媒介させる新たな自然法団体理論をうち立てたこと、そしてその自然法論を、「主権者の命令」としてではなく「全体の確信」としての根本規範に基づく立憲主義と接合することにより、社会契約説の弱点を克服しようとしたことが明らかにされる。その上で、1883年に公刊されたラーバント批判論文とそれに対するラーバントの応答を分析する。本報告では、北ドイツ連邦の成立史叙述をめぐる両者の対立を取り上げ、当時の支配説を唱えたラーバントが、論理的一貫性を犠牲にしてまでギールケの主張を部分的に受け入れていたことを指摘する。帝国に主権を帰属させるラーバントに対して、ギールケは「完全な主権は帝国と領邦国家の双方を含む不可視の全体にのみ認められる」として国家のメルクマールから通常の主権概念を放棄するとともに、帝国と領邦国家は上記の根本規範の定めに従って主権を共有し、相互に補完し合うと主張していた。このようなギールケの連邦国家理論は、統一国家をモデルとする従来の国家論によっては合理的な説明が難しいというドイツの伝統的な主権分裂状態の説明原理として秀逸であること、さらに「全体の確信」としての根本規範の導入を通じて、国家に対する人民の下からの参加の余地を当時において可能な限り確保するという規範的な役割を果たしたことが究明される。


ヨーロッパ中世における封建制と国家研究の現在
佐藤 彰一(名古屋大学)


 一九七四年に合衆国のフランス中世史家エリザベス・ブラウンが、『アメリカ歴史雑誌』に寄稿した「或る構成の専制―中世ヨーロッパの封建制と歴史家―」はその戦闘的な主張にもかかわらず、当初はさほど大きな反響は呼ばなかった。しかし、それから二〇年後にこの論文に直接触発されたスーザン・レイノルズの大著『封土と封臣―中世の証言再解釈―』が刊行されるに及んで、賛否両論を伴い欧米では封建制再検討の学問的機運が高まった。
 欧米では「封建制」の概念は、わが国におけるよりも遥かに強くマルクス主義的含意が意識されるところから、東西ドイツの統一という深刻な政治変動の季節にあったヨーロッパの中世史研究者にとって、その再検討は重要な学問的課題であると認識されたにちがいない。
 ブラウンが提起した問いかけへの学界の反応は目覚ましいものではなかったが、それでもヨーロッパ中世史学がまだ十分研究の鍬を入れて来なかった地域の研究を促し、とりわけレイノルズの前掲書の公刊は、先に挙げた国際政治上の要因も重なって、既知の封建制社会像や封建制論の再検討の機運を促進し、封建制を主題とした国際シンポジウムの活況をもたらしている。
 他方で、二人の女性中世史家が提起したヨーロッパ中世の歴史理解に対する封建制の圧倒的な規定性への疑問は、原理的にこれとアンチノミーの関係にある中世の「国家」現象への再評価という新たな動向も生みだしたように見える。それは特に公権力観念が未成熟で、封建的紐帯の濃密化によってようやく国家形成の基盤を獲得するにいたったとの認識が定着している中世初期社会の研究に関して大きなインパクトを与え、この時代の国家研究を後押しする要因となっている。
 報告ではこのような二つの主要な動向が、ヨーロッパ中世の既定の時代像にどのような変化をもたらすか、その展望を試みたい。


歴史と記憶−9世紀中国における律令制度と王権儀礼
妹尾 達彦(中央大学)


 近代歴史学の方法を再検討する近年の学術動向は、従来、時間をあつかう歴史学で比較的軽視されていた空間の認識を、時間の認識と相関して論じる機運を高めさせている。この動向の中から、時間の認識に関しては、歴史historyと記憶memoryの違いに注意がはらわれるようになり、歴史の舞台の認識については、空間spaceと場所placeを分けて考える傾向が生まれている。
 ここでいう記憶とは、過去に対する個人や人々の脳に蓄積された情報を広くさしており、歴史とは、政治(国家に集約的に現れる他者を強制する力)によって編集された過去の事象をさしている。また、場所とは、個人や集団の記憶の対象となる場のことであり、空間とは、政治によって編成された舞台のことである。あえて単純化すれば、空間と歴史は、公・政治・普遍・宇宙論・抽象に関連づけられるのに対して、記憶と場所は、私・生活・個別・説話・具象に結びつけられ、空間と歴史に重きを置きがちの従来の歴史叙述に対して、場所と記憶の重要性に注意をはらう近年の歴史叙述を生じさせた。
 本報告は、このような研究動向をふまえて、9世紀の中国における律令制度と王権儀礼の関係を再検討するものである。律令にもとづく統治制度である律令制度と、為政者の権力と権威を視覚化する王権儀礼とは、同じ王権理念にもとづく制度ではあるが、目指す社会的機能は相当に異なっており、施行される場と時間、社会状況によっても大きな違いがある。上述の分類を用いれば、律令制度が、あくまで空間と歴史に関わる制度であるのに対して、王権儀礼は、空間と歴史、記憶と場所という二種の異なる認識をつなぐ装置であるがゆえに、律令を補完していく機能をはたしたと思われる。そして、このような王権儀礼の機能は、とりわけ、世俗化が進展して、日記や備忘録、筆記という形で個人の記憶を書きとどめる制度が社会に定着していく、8、9世紀以後に顕著に見られるようになる。
 本報告では、9世紀における律令制度と王権儀礼の関係を、天台宗の僧・円仁(794−864)の唐での滞在記として著名な『入唐求法巡礼行記』の記述内容と、同時期の中国側の文献史料とを対比させることで分析してみたい。『入唐求法巡礼行記』の記述の中でも、分析の主な対象を、円仁の長安滞在期間(840年8月21日から845年5月16日までの約4年10ヶ月)の箇所におくことにしたい。その理由は、当時の都城・長安における円仁の見聞や経験の中に、9世紀中国の律令制度と王権儀礼の関係とその変化のあり方が集約されている、と考えるからである。
 円仁が日記を書いた9世紀の時期的特色は、4、5世紀以来のユーラシア大陸の変動をうけて構築された普遍的な制度が、ユーラシア大陸各地域の固有の伝統主義の復活と世俗化の進展にともない、大きく変貌し始める時期にあたることである。中国大陸においては、6、7世紀の統一王朝の形成とともに整備された律令制度と王権儀礼の枠組みは、国家の歴史と空間に個人の記憶と場所が併存するようになる9世紀以後の時代状況に合わせて、変化を加速させていった。本報告の最後には、9世紀以後に本格化する中国大陸におけるこのような制度の転換は、大局的な観点にたてば、同時期のユーラシア大陸中央部(イスラーム世界)や、ユーラシア大陸西部(ヨーロッパ・地中海世界)における制度の変貌と連動する現象ではないか、という仮説を提示してご指正を仰ぎたい。


美濃西部の地域的特質をめぐって
秋山 晶則(岐阜聖徳学園大学)


 今回の見学会で訪れる予定の美濃西部地域は、西国と東国の中間に位置し、古来より交通の要衝として重視されるとともに、壬申の乱や関ヶ原合戦など、政治史上画期となる戦闘が繰り広げられた地でもあった。本報告では、その地域的特質へのアプローチとして、江戸時代を通じて近江・伊勢の国境地帯に陣屋を構えた旗本高木家及びその支配地域を中心にとりあげ、南宮大社(美濃一宮)などの地域情報とあわせ考察する。
 高木家は、関ヶ原合戦直後、美濃国石津郡時・多良郷(現大垣市上石津町域)に所領を得て以来、西・東・北の三家に分かれて同地を支配し(知行高計4,300石)、幕命により木曽三川流域の治水を担当した旗本である。江戸に常駐した一般の旗本と異なり、知行地に居住して参勤交代を行い、交代寄合として大名並の格式を与えられていた。
 同家に関する研究は数多いが、ここでは、研究史をふまえつつ、@家臣団編成と支配機構、A地域支配の実相(年中行事と心意統治、一揆と仕置、家政改革と「兵農分離」など)、B幕末動乱と領主支配の終焉、この三つの側面にしぼって整理・考察する。また、近年調査が進みつつある高木家陣屋遺構(県史跡)についても、現地見学の参考として、絵図類の分析や建築史の成果をふまえながら、旧家臣団居住区も含めた現状について報告する予定である。
 なお、高木家は、18世紀以降、西濃を中心に木曽三川流域治水を管掌し、膨大な文書を蓄積したことで知られるが、こうした治水事業と地域社会の関係性について検討したものは意外と少ない。当該地域社会が流域環境をいかに認識し、対応を図ろうとしたのか。目下、新たな情報技術も用いながら、各地に分散する史料の統合と共有化を進めつつあるが、そのなかで見えてきた新たな地域像を通して、美濃西部の地域的特質の一端を明らかにしたい。





見学会の御案内


 下記の要領で見学会を開催いたします。今回は、東西日本の結節点的な位置にあり、交通・軍事上の要衝として古くは壬申の乱や関ヶ原の合戦などの舞台にもなった西濃地方に足をのばし、南宮大社(美濃一宮)、高木家(交代寄合美濃衆)陣屋遺構とその周辺を訪れ、この地域の歴史・文化の一端に触れたいと思います。ふるって御参加下さいますよう、御案内申し上げます。

 ○日 時:2008年4月21日(月)8時50分集合(名古屋大学)
  なお集合場所についての詳細は、19日・20日の学会会場で御案内いたします。

 ○参加費:6,500円
  参加御希望の方は、同封の振込用紙に必要事項を御記入の上、4月4日までに振込手続をお願いいたします。

 ○旅 程:午前9時名古屋大学を出発
  → 南宮大社(美濃一宮)
  → 昼食(イタリア料理「リストランテ・アルペジオ」)
    日本昭和音楽村散策(江口夜詩記念館、FN音楽館などがあります)
  → 高木家(交代寄合美濃衆)陣屋遺構、大垣市上石津町郷土資料館
  → 午後4時30分頃JR名古屋駅前にて解散の予定
    (道路渋滞により多少遅延することがあるかも知れません)

 ○案 内:秋山晶則氏(岐阜聖徳学園大学教授)
  なお、前日20日(日)の一般報告の最後に、秋山氏による見学会の事前案内を兼ねた報告「美濃西部の地域的特質をめぐって」を予定しています。