法制史学会第59回総会のご案内


 法制史学会第59回総会を下記の要領にて開催いたします。奮ってご参加下さいますよう、お願い申し上げます。
 総会等への参加手続きにつきましては、同封の参加申込用紙をご利用いただき、FAXにて4月2日(月)までにお申し込み下さい。また、研究報告・懇親会・見学会の参加費、昼食のお弁当代金につきましても、お手数をお掛けして恐縮ではございますが、同封の振込用紙に必要事項を記入の上、4月2日(月)までにお手続きくださいますようお願い申し上げます。
 なお、研究報告に限り、非会員の方々も当日会場にて参加費をお支払いいただきますと、自由に傍聴していただくことができます。御関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。

 1.研究報告
 第1日目  2007年4月21日(土曜日) 午前10時開始
 第2日目  2007年4月22日(日曜日) 午前9時45分開始
 会  場  大阪市立大学 杉本キャンパス 法学部棟3階 730教室
  JR阪和線「杉本町駅」(新大阪から約1時間)下車、東へ徒歩約5分(アクセス)
  法学部棟(壁面に校章と「大阪市立大学」と記された肌色の11階建の建物:マップ
 参 加 費  1000円

 2.懇親会
 日  時  2006年4月21日(土曜日) 午後6時開始予定
 会  場  大阪市立大学 高原記念館学友ホール(法学部棟の向かい)
 参 加 費  5000円

 3.見学会
 日  時  2007年4月23日(月曜日)
 目 的 地  紀ノ川筋の寺社を訪ねて−根来寺・三船神社・粉河寺−
  大阪市立大学(9:00)⇒泉南IC⇒根来寺(11:00頃)⇒岩出市民俗資料館
  ホテルいとう(昼食12:30-13:30) ⇒三船神社(13:45) ⇒ 粉河寺(こかわでら)(14:30-15:30) ⇒
  JR和歌山駅(16:30頃)解散
 参 加 費  6000円
    ※参考URL:和歌山県文化遺産課「紀ノ川緑の歴史回廊

 4.昼 食
 土曜日・日曜日とも大学構内の食堂は全て閉店しております。また近隣に飲食店は若干ございますが、小規模店が多く、混雑も予想されます。
 両日ともお弁当(1000円)の御利用をおすすめします。参加申込用紙および振込用紙にてお申し込みください。事前にご予約いただきました分をご用意いたします。

 5.宿 泊
 市立大学周辺に宿泊施設はございませんが、市立大学まで数十分〜一時間弱程度に立地するホテルを数軒、市立大学生協を通じて御予約いただけるよう手配いたしております。御利用を希望される方は、会員宛に郵送致します案内状に同封の別紙を御参照の上、大学生協へ直接ご連絡下さいますようお願い申し上げます。


 6.準備委員会の連絡先

 住所:〒558-8585
   大阪市住吉区杉本3-3-138
   大阪市立大学法学研究科  安竹 貴彦
 電話 06-6605-2311(安竹研究室)
 FAX  06-6605-2920(法学部事務室)
 E-mail yasutake@law.osaka-cu.ac.jp
    (*なるべくFAXかE-mailを御利用ください。)



総会日程


 第1日目 4月21日(土曜日)

10:00〜11:00近代日本行政裁判所に関する一考察−大正末期から昭和初期の行政裁判法改正作業を手がかりに−小野博司(大阪大学)
11:00〜12:00刑事弁護の成立と証拠法 −18世紀のオールド・べイリから−栗原眞人(香川大学)
12:00〜12:50昼食・休憩
12:50〜14:051807年以前に関して株式会社について語ることができるか?アルプレヒト・コルデス(フランクフルト大学)
14:05〜15:05都市と流通路−室町期京都をめぐって− 高谷知佳(京都大学)
15:05〜15:30休 憩
15:30〜16:30漢代の奏m36170制度について陶安あんど(東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所)
16:30〜17:30「法典と法学」再論石部雅亮(大阪国際大学)
18:00〜懇親会


 第2日目 4月22日(日曜日)

9:45〜10:45憲法押しつけ論の幻小西豊治
10:45〜12:00朝鮮後期の宗法的祭祀承継と家族の変化鄭肯植(ソウル大学校法科大学)
12:00〜12:50昼食・休憩
12:50〜14:00総 会
14:00〜15:00鎌倉幕府裁判における『濫訴』処理について山本弘(九州大学)
15:00〜15:15休 憩
15:15〜16:15大坂町触と惣年寄・惣代塚田孝(大阪市立大学)
16:15〜17:1514世紀前半ドイツの国王裁判権と地域における紛争解決田口正樹(北海道大学)
17:15閉 会



【報告要旨】

近代日本行政裁判所に関する一考察−大正末期から昭和初期の行政裁判法改正作業を手がかりに−
小野 博司(大阪大学)


 わが国は、近代的裁判制度の構築に際し、プロイセン、オーストリア、フランスを参考にして、通常裁判所による行政訴訟を認めずに行政裁判所を設置した(大日本帝国憲法第61条)。従来の研究は、この行政裁判所について、訴訟事項の限定による出訴の制限などを根拠に、国民の権利保障や行政に対する司法コントロールよりも、行政活動に対し事後的な法的正当性を付与することを目的とした機関として理解してきた。
 行政裁判所での組織・訴訟の根拠となった行政裁判法に対しては、法曹を中心に強い批判が存在し、同法の改正は「法曹社会ノ與論」といわれていた。実際、弁護士出身議員が改正案を帝国議会に何度も提出していたが、政府の反対によって実現には至らなかった。ところで、こうした行政裁判法改正問題に対して、行政裁判所はいかなる立場をとったのかというと、実は、時に政府の方針と対立する姿勢をとりつつ、明治30年代以降、行政裁判権の拡大を目指した独自の改正を計画していたのである。
 行政裁判所主導の法改正の動きが頂点に達したのは、前行政裁判所長官である岡野敬次郎が加藤友三郎内閣の司法大臣に就任し、その下で大正12年に行政裁判法改正の是非を審議する臨時法制審議会諮問第六号主査委員会が開催されたときである。改正作業は、花井卓蔵や清瀬一郎などの弁護士出身議員や美濃部達吉などの支持・支援を受けつつ、窪田静太郎長官や清水澄部長を中心に行政裁判所の関係者により進められた。そして、この作業の具体的成果といえるのが、「行政裁判法改正綱領」(昭和3年2月)である。しかし、こうした行政裁判所主導の改正作業は、内務省などの他の行政機関からの猛烈な反対により、最終的には挫折してしまったのである。
 以上の行政裁判法改正作業に関しては、現時点ではまだ史料上の制約などもあり、その全貌を完全に把握することは非常に困難であるといわざるをえない。そこで、本報告では、大正末期から昭和初期にかけて行われた改正作業における行政裁判所の役割を中心に、『清水澄関係文書』や『花井卓蔵文書』等を利用して以下の二点を検討したい。第一に、改正作業において行政裁判所が中心的役割を果たすことができたのはなぜか。また、政府内での行政裁判所の相対的独立性はいかにして獲得されたのか。第二に、行政裁判所による改正構想は、一体いかなる内容を含むものであったのか。また、花井卓蔵や美濃部達吉などの他の改正論者との間で、改正の目的について違いが見られるのか。違いが見られるとすれば、それはどのようなものか。
 本報告により、行政活動に対する事後的な法的正当性付与機関という行政裁判所についての従来の理解の見直しを図るとともに、近代日本において行政訴訟の存在理由がどのように理解されてきたのかについても明らかにしたいと考えている。


刑事弁護の成立と証拠法 −18世紀のオールド・べイリから−
栗原 眞人(香川大学)


 イングランドでは、1696年の反逆罪法によって、反逆罪事件における被告人の不利な地位が是正され、被告人の権利が強化された。被告人は公判の5日前に正式起訴状の写しが与えられ、公判前に弁護士と相談する権利が認められた。さらに、バリスタが被告人の代理人として出廷し、尋問と反対尋問を行い、陪審に対して弁論を行なうことも認められた。被告人側証人が召喚され、宣誓して証言することも認められた。18世紀イングランドの政治的事件を扱うState Trialは、被告人にバリスタがつくことが認められ、代理人間の対論によって進行する当事者対抗主義的公判へと転換した。イングランドでは、反逆罪法以後、当事者対抗主義的刑事裁判が成立したとされてきた。
 しかし、反逆罪法は、普通の重罪の公判を対象としていない。State Trialで認められた公判前と公判における被告人の権利が普通の重罪の公判で認められたわけではない。普通の重罪の公判におけるバリスタの出廷は別に検討されねばならない課題なのである。本報告のテーマはそこにある。
 ロンドンとミドルセクスで生じた重罪事件を扱うオールド・ベイリでは、バリスタが訴追側被告人側の双方で出廷するのは1730年代に入ってからであった。バリスタが出廷する以前の重罪の公判では、公判は被告人自身の陳述が重視される当事者間の対論として進行した。バリスタはむしろ有害なものとして公判から排除されていた。バリスタの出廷は重罪の公判の在り方を転換させる契機となった。
 本報告のテーマは、バリスタの出廷によって重罪の公判がどのように変わったのかを、18世紀のオールド・べイリの裁判記録(Old Bailey Session Papers)から検討することにある。18世紀のオールド・べイリでバリスタが出廷した公判はオールド・べイリの公判全体のなかでは少数にすぎないが、バリスタが出廷する公判が積み重ねられるなかで当事者対抗主義的公判が出現する。バリスタが出廷し、その役割が強化される過程で、公判における裁判官、バリスタ、被告人、さらに陪審の役割の再編成が個々の公判の場を通して実現された。公判全体のなかでは少数とはいえ、被告人にバリスタが出廷した事件は、1780年代後半には15%をこえるまでに達しており、OBSPに収録された被告人にバリスタがついた事件数だけみてもかなりの数に達する(1795年には200件)。個々の事件を詳細に調査するまでに至っていないが、OBSPに収録された事件のなかから、18世紀オールド・べイリで進行した裁判所慣行の再編成について報告したい。


1807年以前に関して株式会社について語ることができるか?
アルプレヒト・コルデス(フランクフルト大学)


 「株式会社」Aktiengesellschaft は、ドイツにおいて当初からそのように呼ばれていたわけではない。今年施行200周年を迎えるフランス商法典 Code de Commerceは、ドイツの商法史にも多大な影響を与えたが、このフランス商法典において、Aktiengesellschaft のいわば《前身》は、匿名会社 société anonyme と表現されており、ドイツ語においてもこれが踏襲され、anonyme Gesellschaft と表現されていた。フランスではこの société anonyme という表現はこんにちでも維持されており、それはドイツのこんにちの意味における Aktiengesellschaft に対応すると見て問題はないが、このような語の対応が、19世紀の当初においても妥当した、と当然に言うことはできない。ただし、こんにちいわゆる株式会社の実質形成が、19世紀初期の、フランス商法典を含むさまざまの事象による刺激に多くを負うものであることは疑いを容れない。他方、19世紀ドイツの法学者にとっては、株式会社の歴史を18世紀以前に遡らせることは、違和感を伴うどころか当然のこととすらされたのである。その背後には、歴史法学派以来の、ゲルマン法と商法の親和性という想定が存在する。この想定が説得力を持たなくなっていった20世紀に、商法史自体も衰退することとなった。
 以上のような認識を踏まえ、フランス商法典以前の《株式会社法史》を語ることの意味を省察しなければならない。この課題が講演の前半で扱われる。厳しく退けられねばならないのは、現行実定法が想定している株式会社のイメージの《淵源 Ursprung》を過去に求めるという態度である。こうした態度が維持されるならば、たとえば株式会社の《前身》が相当程度公法的な性質を持っていたことが看過されよう。これに対して、第一に、株式会社の成立過程を立ち入って観察することによって、歴史的には現在の株式会社とは異なる形態であってしかも株式を基礎とする会社が有り得たのだ、ということを認識することができる。第二に、1807年以前の、株式を基礎とする会社の多様なあり方を叙述することによって、19世紀後半以降次第に規格化を強めていった株式会社の形態とは対照的なあり方を知ることができる。こうした観点から、問題史的に(残念ながら現在の研究水準は比較法的な研究を行う段階に達していない)、1807年以前の、しかし17・8世紀に対象時代を絞って、商事会社 Handelscompagnie を、やや詳しく観察することとする。具体的には、商事会社を記述する用語について、そうした用語に対応する実質および主要な研究史料について、商事会社の組織形態(内部組織、外部との関係、執行機関のあり方、経済的機能)について、順次説明を行う。
 後半においては、とりわけドイツ語圏における商事会社の基本的な構造を、もう少し具体に立ち入って叙述する。すなわち、会社の設立と解散、資本形態と資本参加諸形式、組織と執行機関について、順次叙述していく。このことによって、現在の株式会社との相違がより具体的にイメージされることになろう。なお、後半部分の叙述は、若い研究者であるカタリーナ=ヤーンツ氏の研究を基礎としている。


都市と流通路−室町期京都をめぐって−
高谷 知佳(京都大学)


 前近代の流通路は、海路・陸路を問わず、複数の権力の交錯する地帯であり、またひとつの権力によって完全に掌握されることが難しい地帯である。そして、運ばれるのが貢納・必需品・希少品のいずれであれ、流通は、権力を支え、また揺るがす、重大な問題である。こうした流通路の支配は、世界史的に、通行者の安全保証と荷物への通行料徴収というかたちであらわれ、それをどのレベルの権力が握るかがさまざまに検討されている。
 日本中世史でもっとも研究が進んでいるのは、在地の勢力による流通路支配のメカニズムである。商人のナワバリを通行する者は彼らに通行料を払わねばならず、それを拒めばそのナワバリの商人らが山賊となって襲ってくる。海上支配についても同じ構図が明らかにされている。
 これに対し、中央では、京都を中心とする首都圏の流通の結節点に、さまざまな権門が朝廷に由来する権限をもとに関所をおき、その権門と結びついて通行料を免除される特権商人らが活動していた。中世の権力の多元性を、この首都は如実に反映する。複数の権門がおのおの賦課や免除を行い、その相互の紛争や調停・権限の縮小や無力化が研究されてきた。近年の研究では、京都も、在地のナワバリとしての流通路支配とパラレルにとらえられ、関所周辺の集落の役割など、「下からの」流通路支配のメカニズムがクローズアップされる傾向にある。
 本報告では、京都を俯瞰し、流通路支配のメカニズムに、室町幕府の都市支配を接続させて検討する。
 京都の流通をめぐっては、@複数の権門が各自の賦課権を主張するという多元的な権力状況 A荘園制的な物流と、輸出品などの高級品生産 B戦乱という攪乱因子 などの特徴があげられる。
 一方、都市としての特徴は、室町幕府の政権所在地として、安定が要請されることである。各権門の流通路における賦課は、需給の安定・周辺の治安など、都市全体に波及する問題となる。従来の研究では、室町幕府が関所の許認可を行っていたことが指摘されているが、それにとどまらず、室町期を通して存続した関所と共存しながら、都市の安定をどのように維持していくか、都市と流通路への、幕府の「上からの」関与を中心に検討したい。
 本報告では、山科家の率分関・北野の短冊関などを中心に、都市と流通路の支配をめぐる幕府と諸勢力の動向をみてゆく。とりわけ、応仁の乱以降の戦乱にともない、都市を守るための支配が流通路に及んでゆく過程をみてゆきたい。


漢代の奏m36170制度について
陶安あんど(東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所)


 漢代の「奏m36170」制度は文献史料によって昔からその存在が知られていたが、中国湖北省江陵縣張家山の漢代初期の墓から出土した竹簡(以下「張家山漢簡」と略称)の発見(1983年)及びその公表(1993年、2001年)によって奏m36170制度は新たに注目を集めた。張家山漢簡には、暦譜や算術書などのほか、「二年律令」と題する法令集と「奏□[さんずい+獻](m36170)書」と題する文書群が含まれており、漢代法制史の研究に多くの斬新な材料を提供することとなった。その中では、「奏m36170書」は当時の「裁判の記録」と見做され、漢代の裁判制度を解き明かす鍵として多くの期待を呼んできた。しかし、「奏m36170」を「裁判」と直結することには大きな飛躍が感じられる。ここに、本報告が改めて「奏m36170書」と奏m36170制度の性格について考察を試みる所以がある。
 奏m36170制度は、我々が通常イメージする裁判とは幾つかの相違点があるが、本報告においては次の二点に焦点を絞る。一つには、奏m36170は建前として「疑罪」のみを対象とする。「疑罪」は、『尚書・呂刑』等、中国の経書にこの概念が見られるのみならず、唐律にも専条、つまり断獄律に疑罪条が設けられている。それだけこの概念は唐代以前の旧中国で重要視されてきたということになろうが、現在に至るまで疑罪に関する説得的な説明はなされていない。疑罪とはそもそも如何なる事態を指していたのだろうか。事実関係に関して疑いが持たれることなのか、規範の解釈に疑問が生じたことを想定していたのか。本報告は「奏m36170書」の幾つかの文書の分析を通じて先ず疑罪の問題に新たな照明を当ててみる。
 もう一つの重要な相違点としては、集中的審議という手続の特徴を取り上げることができる。奏m36170の手続は、本来の建前としては個別事案に対応して執り行われるが、文献史料から判断する限り、それは秋に集中的に審議されるように変容するとともに、「疑罪」の有無を問わず一定の事案類型を一括して朝廷の議に付託する傾向を生じる。この点においては、明清時代の秋審と朝審制度と共通性が認められるが、旧中国の断獄手続において時代の懸絶にも拘らずこのような手続的特徴が共有されることは、極めて興味深い現象である。本報告は、文献史料に依拠して漢代における奏m36170手続の変遷を追跡すると共に、時間の許す限り、手続的特徴を支える旧中国法の仕組みについても論及する所存である。


「法典と法学」再論
石部 雅亮(大阪国際大学)


 本報告は、1980年代に発表した拙稿(「法典と法律学(1)(2)(3)」法学雑誌27巻3・4号、28巻1号、29巻4号および「プロイセン一般ラント法の講義について」法学雑誌31巻3・4号)の新しいヴァージョンである。主題は、プロイセン法典の編纂後、大学の教育・研究において、プロイセン法と普通=ローマ法学はどのような関係にあったか、という問題の解明である。この両者の関係は簡単にいうと、法典編纂後当初はたしかにプロイセン法の講義が行われ、教科書も作成されたが、プロイセン法学は順調に発展せず、やがてローマ法との関係は逆転した。1810年創設のベルリン大学では、プロイセンの首都の大学であるにもかかわらず、1819年にサヴィニーが講義をするまで、プロイセン法の本格的な講義は行われず、もっぱらローマ法とゲルマン法を柱とする歴史法学のプログラムにしたがった教育が行われた。本報告では、1826年にプロイセン法の講義が義務づけられるまでの経過を辿るが、なぜプロイセン法の講義が行われなかったのか、それがなぜおこなわれるようになったのか、という疑問に答えることを課題とする。また、ベルリン大学ばかりでなく、新たにケーニヒスベルク、ブレスラウおよびボンなど他の大学の事情をも考慮する。
 この問題の考察に当たって、重視されるのは、プロイセン法とローマ法という二つの科目の位置づけをめぐって、政治的社会的思想的な要素がどのように働き、どのように影響を及ぼしあったか、という点である。その場合さしずめ主導的な推進者としては、文部省と司法省という政策の立案・実施機関、行政府に対し一定程度の独立性を示しながら、政策実施に協力しなければならない大学法学部と裁判所、政策の客体としての学生層が問題となる。これらの動きが複雑に作用して、プロイセンの法学と法学教育のあり方を決めていくことになる。歴史的変化のそれぞれの局面において、国家と大学、国家立法と法学、法学における理論と実践、法学教育と法曹養成の関係が矛盾と緊張を伴いながら展開するのである。本報告は、これをまだ紹介されたことのないプロイセン文化財財団公文書館所蔵の官庁資料を通じて明らかにする。
 考察の対象になる事件は、200年前の過去に遡るが、ドイツの法曹養成または法学教育の原点にあたるのであり、それがどのような構造と役割をもっていたかを明らかにする意味もある。それとともにロースクールの開設で大きく揺れ動いているわが国の法曹養成・法学教育は、このドイツ型と近似するところがあるゆえ、その問題点を反省する機縁となると考えられる。


憲法押しつけ論の幻
小西 豊治


 終戦の翌年1946年が明けたばかりの、1月2日、最高司令官附合衆国政治顧問ジョージ・アチソンは、本国の国務長官に緊急の書簡を書いた。アチソンは、日本国内で発表された「ある私的な研究集団」の憲法改正草案が、第1条「日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス」となっており、「さらに重要なことに、最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定されている」と伝えている。
 GHQは、内部向けの『プレス・リレーションズ』(45年12月31日)で、上記の憲法草案について「政府の行動を求めて提出された草案のなかで最も重要な規定は、主権を人々の手のなかにおいている。」と報じている。
 セオドア・H・マックネリーは、日本国憲法前文の原典として、「(1)アメリカ合衆国憲法(2)リンカーンの ゲテイスバーグの挨拶(3)マッカーサー3原則(4)3国のテヘラン会談の宣言(5)アメリカの独立宣言」をあげている。(『憲資・総』第35号) しかし、「国民意思の主権を宣言し、この憲法を制定」(46年3月6日草案前文)するという国民主権の宣言規定の根拠は、示されていない。国民主権の宣言規定 は、マックネリーには出典根拠が思いつかなかったと考えられる。
 アメリカ本国政府の憲法改正の指針「SWNCC−228」は、天皇制を維持する場合、「天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動する」「天皇は、憲法第一章中の第十一条、第十二条、第十三および第十四条に規定されているような、軍事に関する権能を、すべて剥奪される」「行政府は、選挙民または国民を完全に代表する立法府に対し責任を負う」とのべ、「マッカーサー三原則」は「天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする」とのべている。ポツダム宣言第12項は、「日本国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるる」とのべている。このいずれにも、「憲法改正案において国民主権の宣言規定を設けよ、天皇から政治的権能をすべて剥奪せよ」との指示がない。
 GHQが実際に草案起草にあたって打ち出した方針は、これらよりはるかに厳しい内容であった。2月4日「新しい憲法を起草するに当たっては、主権を完全に国民の手に与えるということを強調すべきである。天皇の役割は、社交的君主の役割のみとさるべきである」とのべられ、2月6日には、「天皇の有する一切の権限を厳重に制限しておくこと、および天皇は装飾的機能のみを有する旨を疑いの余地のないほど明白にしておくこと」、マッカーサーへの草案説明では、「天皇制を修正し、天皇を儀礼的な元首とすることによって、国民主権のもとで立憲君主制を樹立すること」とされたのである。  GHQは、草案作成に当たって、モデル案として採用した上記民間草案に影響されたのである。この民間草案すなわち鈴木安蔵起草の「憲法草案要綱」が、何をもとにどのように作成されたのか、具体的に検証するのが、本報告の狙いである。


朝鮮後期の宗法的祭祀承継と家族の変化
鄭 肯植(ソウル大学校法科大学)


 本発表の焦点は、韓国で家父長制が形成される歴史的契機を考察する点にある。
 1392年に建国された李氏朝鮮は、儒教を国是とし、それに沿って制度を整備していく。家族の領域では『朱子家礼』をベースに祭祀承継に関する法制が整備されたが、これは1485年に編纂された『経国大典』礼典・奉祀条および立後條に規定された。同規定の核心は祭祀の長子承継であったが、当時の現実はそうではなかった。16世紀までは長子奉祀ではなく男女輪回奉祀が一般的であり、後裔のいない場合は、養子縁組が行われることもあった。このような祭祀承継の慣行は、社会構造と密接に関係している。当時の婚姻と居住の形態は、婿入婚であり、男女均分相続であったからである。
 しかし、16世紀半ばには『朱子家礼』への理解が深まり、実践を経るに伴い、これらの形態に変化が現れ始めた。まず、婚俗において結婚後に夫が妻の実家に滞在後、夫の家に戻る「半親迎礼」に変わり、父系親族集団が形成される契機が生じた。それに伴って男女均分相続制が男女差別相続制へと変わり、祭祀においては、娘と外孫が排除されて「諸子輪回奉祀」へと変化した。しかし、祭祀を執り行うことの経済的負担が大きくなり、輪回奉祀では祭祀を行わないという事態が生じるおそれがあった。そのため、相続において長子を優遇し、長子が祭祀を専ら担う方式が採られた。
 朝鮮の両班の美徳は「奉祭祀、接賓客」である。郷村社会における家門の位置付けは、入郷祖とその顕揚によって決まったのである。だが、この方法では経済的負担が大きい。そのため、朝鮮前期の男女均分相続は、事実上長子優遇ないし独占相続へと変化していく。また、祭祀も長子が単独で承継した。
 この様な過程を図式的にまとめると、まず婚俗と居住形態が父系中心に変わることにより、娘などが祭祀から排除されて相続上差別された。その後、諸子均分相続と諸子輪回奉祀は、先祖祭祀の強調により衆子が排除され、長子の独占相続が確立していく。かくして、韓国に家父長制が事実上形成されたのである。  家父長制は、植民地期を経てさらに強調され、法的に整備されていった。その原罪はどこにあるのか?韓国の歴史であろうか?それとも植民地期の経験であろうか?


鎌倉幕府裁判における『濫訴』処理について
山本 弘(九州大学)


 『吾妻鏡』には、執権北条泰時が御成敗式目を制定した目的として、「濫訴の防止」という観点の存在をうかがうことのできる記述がある(『吾妻鏡』貞永元年〈1232年〉5月14日条「(略)…是関東諸人訴論事。兼日被定法不幾之間。於時縡亘両段。儀不一揆。依之固其法。為断濫訴之所起也。」)。訴訟機関というものは、健全かつ迅速な訴訟処理を行うために、「濫訴」を防止しようと努めるのは当然のことであろう。しかし、訴訟において「濫訴」であるか否かを最終的に決定するのは裁判権者である。では、いったい鎌倉幕府の裁判権力が判断していた「濫訴」とはどのようなものであり、どのような手法で「濫訴」を防止しようとしていたのか。
 本報告では、まず「濫訴」ということばの意味内容について大まかな整理をおこなう。鎌倉幕府の判決において「濫訴」と判断された事例を中心的な検討対象とし、「濫訴」の示す訴訟内容を整理し類型化を試みる。つまり、裁判担当者のいう「濫訴」の含意について吟味することを本報告の第一目的としたい。(もちろん、訴訟すべてが「濫訴」と認識される側面を有していた可能性もある。結果的に敗訴した者の訴えや主張が「濫訴」と判断される余地が残されているからである。しかし、本報告では「濫訴」と判断された事例にはやはり一定の傾向があったと措定し、検討をおこなうこととする。)
 次に、鎌倉幕府の「濫訴」防止対策に関する考察を本報告の第二目的とする。ところで、報告者は日本中世における土地境界紛争についての研究をこれまで行ってきた。とりわけ、鎌倉幕府の定めた堺相論処理方法(「堺打越制度」)に登場する「打越請文」は、「濫訴」防止策として重要な示唆を与えてくれる。「堺打越制度」とは、堺相論が「濫訴」であった場合、押領を企図していた面積と同等の別の所領を「濫訴した者」から「濫訴された者」へ移転するというものであるが、その際、判決に先立って両当事者から、自らの訴えが「濫訴ではない」旨の誓約である「打越請文」なるものを提出させていたのである。「打越請文」に代表されるような、鎌倉幕府による「濫訴」防止対策立法について、総合的な検討を加えていく。
 これらの作業を通して、「濫訴」という観点から鎌倉幕府の紛争処理にアプローチをおこない、紛争処理に対する鎌倉幕府裁判のスタンスについて、その一端を明らかにしたい。(たとえば、鎌倉幕府の裁判権力が「濫訴」と判断し、訴訟を排除する背景には、「裁判権力側による何らかの思惑」・「政治的背景」が影響を与えていた側面があったとも推察できる。こうした点も、あわせて検討していきたい。)


大坂町触と惣年寄・惣代
塚田 孝(大阪市立大学)


 報告者は、これまで17世紀の大坂町触を中心とした都市法の再検討を試みてきた。その際、【法の形式】と【法の内容】の二つを統一して把握し、都市社会のあり方を明らかにすることを目指し、17世紀半ばにおける都市法制整備の状況や、惣年寄が「年寄中」という実体的な仲間集団を形成していたことなどを指摘してきた。本報告では、これらの検討の中で浮かび上がってきた二、三の課題を解明することをめざしたい。
 一つは、17世紀の大坂町触が、慶安元(1648)年4月から明暦元(1655)年10月に出された重要町触の集成とそれに続く町触を収めた諸種の写本をベースに考察されてきたことの意味と限界を考えることである。こうした写本の残存状況自体が、17世紀半ばの都市法制整備の存在を証明しているが、逆に、そこに含まれなかったが故に、実際には出されたにもかかわらず忘れ去られた町触も多数あったのではないかと思われる。
 そうした問題に迫る手掛りが、17世紀の史料を中心とする『御津八幡宮・三津家文書』である。そこには、諸種の写本には含まれていない町奉行所からの通達が多数含まれており、町触と通達・指示が一括される形で伝えられた様子が窺えるのである。また、この史料群は、町触が伝えられた町の側の史料であるだけに、〈法と社会〉という問題を考えるうえでも恰好の素材なのである。
 もう一つは、こうした町触の通達に重要な役割を果たす惣年寄や惣代について考えることである。言うまでもなく、三郷の運営の中心に惣年寄がおり、その下で惣会所の実務を担う惣代がいたことは周知のことであろう。しかし、先に惣年寄は「年寄中」という実体的な仲間を形成していたことを指摘したが、同様に惣代もそれ自身で仲間集団を形成していたのである。そのことは、惣年寄−惣代の関係が単純に官僚的組織における上下関係と言えるかの検討を要請する。町触や通達のなかで、惣年寄や惣代にどのような指示や役割が与えられているかを手掛りとして、両者の性格を考えてみたい。
 さらに、惣年寄の社会的位置づけに関わって、公事訴訟への関りについて触れたい。かつて、朝尾直弘氏は、近世京都の町代について、「町代仲間は公事訴訟への出仕を通じ民事・刑事の裁判に関与し、また都市行政にかかわる触の決定過程に調査のかたちで参加しており、これらによって、自治体である下部の町の意見を反映させる回路を構成し、下からの官僚制形成の可能性を萌芽的に有したと思われる」(『朝尾直弘著作集』第7巻284頁)と指摘され、それとの対比で大坂の惣年寄の性格にも言及された。しかし、大坂の惣年寄も公事訴訟の一部分担処理を委ねられており、検討の余地があろう。  本報告では、以上の諸点を相互に関連させながら論じることとしたい。


14世紀前半ドイツの国王裁判権と地域における紛争解決
田口 正樹(北海道大学)


 西洋中世の王権にとって、広い意味での司法は統治活動の重要な部分を占めていたが、制度史的な研究に満足せずに、その機能と意義を評価しようとすると事は必ずしも容易ではない。たとえば近年の一般史研究では、紛争解決という視点から、中世初期については狭義の裁判手続と判決の意義を大幅に相対化して、調停による解決や和解の演出を重視する一方、中世中期以後になって法による裁判と判決が本格化すると考える見解が、ゲルト・アルトホフらにより表明されているが、そうした把握に対しては異論もありうるところである。本報告では、中世初期から中期に関するこのような研究動向も念頭に置きつつ、14世紀前半の国王・皇帝ルートヴィヒ4世(国王在位1314-1347)の治世について、国王裁判権の機能と意義を、地域における紛争解決との関連において考察する。この時期、ドイツ各地では、地域的秩序がある程度の成熟を示すのに対応して、紛争当事者だけでなく地域の第三者が関与した紛争解決が、当事者の実力行使という選択肢を伴いながらも、さまざまに試みられており、実際、紛争の多くは国王宮廷まで達せずに地域レベルでとどまっていた。したがって国王裁判権の機能と意義を適切に評価するためには、地域における紛争解決を背景として見ていく必要があると考えられるのである。そこで報告では、まず対象地域としてライン川中流地方を取り上げて、そこで諸侯・貴族・都市などのアクターが関係した紛争解決の諸相を見る。その際とりわけ、14世紀ドイツで極めて活発に試みられていた仲裁による解決に注目し、仲裁付託合意、仲裁判決、同盟文書中の仲裁条項などの史料から、仲裁の仕組み、有効性、限界を論じる。また、そうした仲裁が、地域内のヘゲモニーや同盟関係といった秩序構造の中で展開されていたことをも確認する。その上で次に、そうした仲裁などを通じて地域において紛争解決が試みられている中で、国王宮廷に問題が持ち込まれ王権が関与して解決が図られるのはいかなる場合なのか、そしてそのような場合に国王宮廷での手続や決定がどのような意味を持ち得たのかを、いくつかの事例を取り上げて検討する。最後に、以上のようなライン川中流地方の状況を他の地方と比較することによって、紛争解決と国王裁判権のかかわりが地域により大きな偏差を伴うものであったことを示し、ドイツの国制全体にとって国王裁判権が有した意味を考えたい。