法制史学会第57回総会は、桐蔭横浜大学にて、2005年4月23日(土)、24日(日)に開催される予定です。下に概要とプログラムを示します。
 地図やバス時刻表などの詳細については、開催案内(pdf版)をご覧下さい(なおIE 4.0以降でWeb上のPDFを表示する場合、IE側のセキュリティレベルが[高]に設定されていると表示できません。インターネットオプションのセキュリティレベルを[中]または[低]に変更してください)。



法制史学会第57回総会のご案内


 法制史学会第57回総会を下記の要領で開催いたします。会員の皆様におかれましては、奮ってご参加くださいますよう、ここにご案内申し上げます。
 ご参加の申し込みにつきましては、同封の郵便振替用紙に必要事項を記載の上、4月8日(金曜日)までにお振込の手続をお願い申し上げます(郵便振替番号:00250-5-79031、加入者名:桐蔭法制史学会準備委員会。なお恐縮でございますが、振込手数料につきましてはご負担をお願い致します)。

 1.研究報告
 ◇第1日目:2005年4月23日(土曜日)午前10時開始
 ◇第2日目:2005年4月24日(日曜日)午前10時開始
 会 場:会場:桐蔭横浜大学法学部棟J201教室(学内案内地図。本学ホームページもご参照下さい(http://www.cc.toin.ac.jp/UNIV/japanese/)。
 参加費:800円(学会運営軽量化の試みとして、休憩時間のお菓子のサービスを省略させていただきます。何卒ご了承下さい)

 2.懇親会
 日 時:2005年4月23日(土曜日) 午後5時30分開始予定
 会 場:桐蔭横浜大学法学部棟横「交流会館」(学内案内地図)
 参加費:5,000円(同封の郵便振替用紙に参加ご希望の旨ご記載の上お申し込み下さい)

 3.昼 食
 本学は駅近郊の商店街から離れた場所にあり、近隣に利用可能な商店・食堂などがほとんどございません。両日ともお弁当(1000円)のご利用を強くお勧めいたします。同封の郵便振替用紙に希望日時をご記載の上お申し込み下さい。事前にご予約いただいた分につきご用意させていただきます。

 4.宿 泊
 誠に恐縮でございますが、宿泊につきましては予約事務を承っておりません。ご参考までに、近隣の宿泊施設につきましてご案内を掲載させていただきます。
○青葉台フォーラム(最寄り駅:東急田園都市線青葉台)
Tel:045-985-2109
URL:http://www.tokyu-com.co.jp/aobadai/
桐蔭にて学会開催の旨お伝えいただきますと割引がございます。
○ホテルモリノ新百合ヶ丘(最寄り駅:小田急線新百合ヶ丘)
Tel:044-953-5111
URL:http://www.hotelmolino.co.jp/index.html


  2005年3月7日

桐蔭法制史学会準備委員会

〒225-8502 横浜市青葉区鉄町1614
桐蔭横浜大学法学部
Tel:045-974-5192(出口研究室)



総会プログラム


 第一日(4月23日:土曜日)

◇◇ シンポジウム「コード・シヴィルの200年U〜内なるまなざし」 ◇◇
10:00〜10:10趣旨説明石井三記(名古屋大学
10:10〜10:30フランス民法典:多様な読解と柔軟性波多野敏(岡山大学)
10:30〜12:00コード・シヴィルの200年:法制史家のまなざしジャン=ルイ・アルペラン(高等師範学校)
(翻訳:野上博義)
12:00〜13:40昼食・休憩
この間、メモリアルアカデミウム内にてライヒ最高裁判所旧蔵フランス民法関係コレクション見学
13:40〜14:15コード・シヴィル成立を可能にした革命までの学説史的前提大川四郎(愛知大学)
14:15〜14:50コード・シヴィルの日本における受容小柳春一郎(獨協大学)
14:50〜15:25民法典200周年を祝う−「2005年の日本」から大村敦志(東京大学)
15:25〜15:55休 憩
15:55〜17:00質疑応答
17:00〜17:20総括大久保泰甫(南山大学)
17:30〜懇親会

 第二日(4月24日:日曜日)

10:00〜11:00喧嘩両成敗法の法史上の意義について河野恵一(九州大学)
11:00〜12:00ニクラス・ルーマンの歴史観村上淳一(桐蔭横浜大学)
12:00〜12:45昼 食
12:45〜13:45総会
◇◇ ミニシンポジウム「調停の比較法史」 ◇◇
13:45〜14:00趣旨説明川口由彦(法政大学)
14:00〜14:15フランスの「調停」−conciliationとjuge de paixを中心に松本英実(新潟大学)
14:15〜14:45ドイツの「調停」−プロイセンSchiedsmann制を中心に松本尚子(上智大学)
14:45〜15:15日本の「調停」−明治「勧解」制を中心に林真貴子(近畿大学)
15:15〜15:45休 憩
15:45〜16:15イギリスの「調停」−治安判事実務を中心に小室輝久(明治大学)
16:15〜16:35イギリスarbitrationにまつわる問題整理−イギリス中世法史からの視角北野かほる(駒澤大学)
16:35〜17:05中国の「調停」−清代「聴訟」の変容高見澤磨(東京大学)
17:05〜17:50討論
17:50〜18:00総括岩谷十郎(慶應義塾大学)



【報告要旨】

シンポジウム「コード・シヴィルの200年U〜内なるまなざし」

趣旨説明
石井三記(名古屋大学)


 本シンポジウムは、フランス民法典200年を迎えた昨年春の法制史学会シンポジウム「コード・シヴィルの200年T」につづく企画として開催される。前回は「外からのまなざし」という副題の下に、日本・ドイツ・北米の三地域における民法典および民法学へのコード・シヴィルの影響について、三本の招待講演で組み立てられた。今回のシンポジウムのサブタイトルは「内なるまなざし」である。これは何よりもまず、フランスの法の歴史のなかでコード・シヴィルの成立とその後の展開とをあとづけることを含意し、そうして近代法システムの重要な出発点とされるコード・シヴィルの再定位という課題に法制史の観点から取り組むことを目標にするものである。
 この「内なるまなざし」のために、今回は、フランスから本シンポジウムのテーマに関して、現在、望みうるもっとも適任のアルペラン教授を招聘して、講演していただくことが可能になった。アルペラン教授は、フランス民法典200年に関する多数のシンポジウム、とりわけ2004年3月に破毀院ほかの主催によりソルボンヌで開催されたコロークの法制史分野での報告を担当され、これらの報告等のほかにも、フランス国民議会を会場にしての民法典200年記念展覧会の責任者もつとめられた。近年、歴史学では「記憶の場」のテーマが紹介・議論されているところだが、コード・シヴィルを「記念する」ことの意味も含めて、民法典200年が終了したこの時点での、総括をしていただけることになるのではないかと期待している。なお、このシンポジウムと関連して主催校である桐蔭横浜大学所蔵の「フランス民法関係コレクション」の見学も予定されているところである。
 このように今回のシンポジウムでは、コード・シヴィルの200年について、法制史の視点からなされるアルペラン報告を軸に、コード・シヴィル揺籃の時期ともいえるアンシャン・レジーム期の法学説的前提や法文化的土壌、フランス革命期のコード・シヴィル編纂の歴史などを加味して、フランス法制史の側からの「内なるまなざし」が語られることになる。と共に、狭義の意味での「内なるまなざし」ということであると、やはりフランスにおける現行法としての「コード・シヴィル」の内側からの視点が必要であるし、やや広義の意味での「内なるまなざし」ということでは、コード・シヴィル継受のケーススタディともなる日本法制史の側からの視点も不可欠である。
二年連続の今回の企画立案の議論の過程では、フランス民法典の意義をフランス、そしてヨーロッパ、さらに非西洋のなかで位置づけることが趣旨のひとつとして出されていた。質疑応答の時間では、今回の「内なるまなざし」についての質疑と討論が中心になろうが、前回のシンポジウムも広く視野に入れて、重層的なコード・シヴィルの像を描くことができるよう、会員諸氏の積極的な参加をお願いする次第である。


フランス民法典:多様な読解と柔軟性
波多野敏(岡山大学)

 法制史研究は、およそ半世紀ほど前までは、フランス革命をその終点とするのが一般的であり、革命後の歴史研究は、基本的に実定法学者が行なってきた。こうした傾向の代表的なものとしてカルボニエの研究をあげることができよう。カルボニエはフランス民法典の「精神」を、世俗性と個人主義であると把握し、また、制定後の歴史に関しては、民主的共和政が到来する一八八〇年を画期として、これ以後、家族法における個人主義の進展、財産法における社会化といった傾向が基調となって、民法典にさまざまな修正が加えられていくと捉えている。
 しかしながら、ここ十数年の歴史家による私法史研究の進展は、こうした民法典のイメージにいくつかの疑問を呈している。カルボニエの個人主義的な民法典像に対しては、クザヴィエ・マルタンが精力的な批判を続けている。また、ジャン=ルイ・アルペランの一連の仕事は、緻密な歴史的方法によって、単純化されがちな民法典の複雑な性格を明らかにしてきた。本報告では、カルボニエの研究と比較しながら、アルペランを中心とした近年の民法典の歴史研究の傾向を整理し、後のアルペラン講演の理解の一助としたい。
〔参考文献〕
ジャン・カルボニエ(大久保泰甫訳)「社会学的現象として見たナポレオン法典」『法と刑罰の歴史的考察 : 平松義郎博士追悼論文集』名大出版、1987。
クザヴィエ・マルタン(野上博義訳)「ナポレオン法典の神話」名城法学40巻1号、1990。
ジャン・ルイ・アルペラン(野上博義訳)「ナポレオン法典の独自性」名城法学48巻4号、1999。

コード・シヴィルの200年:法制史家のまなざし
ジャン=ルイ・アルペラン(高等師範学校教授)

 フランスで民法典200周年を記念する行事がおこなわれたことは、今日、法の世界のこの巨大な記念碑を祝うことの理由についてどういうものがありえたかを自問する機会になった。フランスの法律家たちは民法典を崇め敬うような習慣を捨てはじめている。かれらは民法典の誕生がナポレオンの権威主義的な体制とイデオロギーのあとをとどめていることを以前よりも意識するようになって、その欠陥に気づくようになり、そして、とりわけフランスの社会とフランスの国外とで民法典の威光にかげりが見られることがよくわかるようになったのである。このような、より謙虚な姿勢で見たばあいに明らかになってきたのは、フランスの民法典編纂の絶対的ともいえる一枚岩的なまとまりは疑わしいものであり、民法典の成功の原因のひとつはその寄せ集めのようなフレキシブルな性格にあるのではないかということである。
 この法典の条文の形成と諸変化を、フランス社会の諸発展に相応するかたちで研究するならば、この大規模な法現象の複雑さに光をあてることになろう。1804年、フランス民法典はアンシャン・レジームの古法とフランス革命の成果とを混ぜ合わせて、名士たちの社会を打ち固めた。19世紀のあいだ、民法典はブルジョワの価値観を、共和主義的な理想で作り変えながら、フランス社会に浸透させていった。20世紀、民法典は社会的なモデルを押しつけようとすることはなく、習俗の変貌になんとかついていった。
出発の時点では立法が優勢であるにしても、その後の過程では判例が大きな部分を占めるようになった。そして、現在、フランス民法の法文化は、まだ、立法と裁判とのあいだの互いに補い合う性格について、考えさせるものたりえているのである。(訳:石井三記)

コード・シヴィル成立を可能にした革命までの学説史的前提
大川四郎(愛知大学)

 1804年に成立したコード・シヴィルがフランス大革命の産物であることは間違いない。だが、この法典は、大革命によりにわかに出現したものではない。革命直前まで分裂していた国内法源を「和解」させたとポルタリスが述べているように、コード・シヴィルは、アンシャン・レジーム時代との連続性が強いのである。
アンシャン・レジーム期のフランスは、北部慣習法地域、南部成文法(ローマ法)地域へと、大きく2つに分かれていた。更に、北部慣習法地域では、細かい村や町ごとに法源は異なる慣習法へと分裂していた。このことは、統治上、大きな障害となった。
 このため、国内の法源分裂をいかにして克服するかが早くから重要な課題となった。慣習法の大部分が成文化されていなかったのに対し、ローマ法は、精緻な概念と論理とを備えていた。フランス王権が、直面していた行政・司法上の諸課題を解決するためにローマ法に関心を示したのは当然のことであった。
 だが、フランス王権は神聖ローマ帝国との対抗上、ローマ法を公然と国内法とすることはできなかった。そこで、フランス王権は、王令により、法源適用順序(1.王令、2.慣習法)を指定し、該当する法源がない場合に、ローマ法を補充的に適用すべし、とした。そして、慣習法の公式編纂を命じた。
 以後、アンシャン・レジーム時代の法学者らは、ローマ法の知識をはじめとして、様々な潮流を吸収しながら、慣習法の体系化を試みていった。北部慣習法と南部成文法という法源分裂は解消されないまま、大革命を迎えることになるが、アンシャン・レジーム時代の法学者らの成果は共和政政府そしてナポレオンに受継がれることになる。
 この報告では、以上のような流れを鳥瞰してみたい。

コード・シヴィルの日本における受容
小柳春一郎(獨協大学)

 1804年に成立したコード・シヴィル(Code civil)は、日本においても近代法典の範型となり、1898年民法もその影響下にある。本報告では、二つの観点からコード・シヴィルの日本における受容を検討する。一つは、法典化(codification)という形式的な観点である。もう一つは、民法の基本原理という実質的な観点である。第一に関連して言えば、法典化の思想は、フランス革命を経てコード・シヴィルを代表とするナポレオン5法典(民法典、商法典、民事訴訟法典、刑法典、刑事訴訟法典)に結実した。その後フランスでは、脱法典化(décodification)が進んだが、1989年からは、法典編纂高等審議会(Commission supérieure de Codification)が設置され、全国家法(命令を含む)を60あまりの法典に編成し直そうという野心的な試みが実現しつつある。ところで日本では、「民法典」なる題名の国法があるわけではなく、あるのは「民法」である。他方、日本民法は法典調査会による成果であり、その仏訳題名はCode civilである。日本のその後も含め法典化という観念の受容について問い直してみたい。第二は,民法の原理をいかなるものとしたかという問題である。すでに、この点については、本シンポジウムの招待報告者であるアルペラン教授が、コード・シヴィルに即して、家族と所有権を軸としたという分析を提示している(著書『Le Code civil』及びシンポジウム報告参照)。これに対して、日本民法はいかなるものであったか?日本民法編纂において、家族と所有権についてどのような立場があったかを分析する。

民法典200周年を祝う−「2005年の日本」から
大村敦志(東京大学)

 200周年を機にフランス民法典への「内なるまなざし」のありようを探るという課題を前にして、「2005年の日本」の民法学者に何が可能か。本報告では、2004年に、さらには1904年にフランスで出版された関連の主要文献(下記の6点計7冊)における法学者・法律家たちの言説を素材として、この課題への接近を試みる。同時に、この内なる視線に重ね合わせた報告者自身の外からの視線の中に含まれる(「フランス(人)の」という形容詞を伴わない)「民法典」への視線のありようを、もうひとつの「内なるまなざし」として提示したい。現代語化された民法典の施行される「2005年の日本」で民法典について語る以上、それは日本民法典への「内なるまなざし」を主要な視線として含むことになろう。
〔検討対象〕
- Le Code civil, 1804-2004. Livre du Bicentenaire, Dalloz/Litec, 2004
- Université Panthéon-Assas (Paris II), 1804-2004, LE CODE CIVIL. Un passé, un présent, un avenir, Dalloz, 2004
- LE DISCOURS ET LE CODE. Poratalis, deux siècles après le Code Napoléon, Litec, 2004
- 100e Congrès des notaires de France, Code civil. Les défis d'un nouveau siècle, ACNF, 2004
- La société d'Hétudes législatives, Le Code civil, 1804-1904. Livre du centenaire, 2 tomes, Arthur Rousseau, 1904
- Le Centenaire du Code civil, 1804-1904, Imprimerie Nationale, 1904




喧嘩両成敗法の法史上の意義について
河野恵一(九州大学)

 本報告の目的は、15世紀後半から17世紀初頭にかけて幕府、戦国大名等の武家権力によって比較的多く制定された「喧嘩両成敗法」が、わが国独特の喧嘩処理規範として広く知られる「喧嘩両成敗」という法観念と如何なる関連性をもって登場したのかについて、研究史をふまえて再検討することにある。これまでの研究においては、喧嘩の両当事者に対して等しく厳罰を科すことで、あらゆる意味での私的実力行使を強権的に抑圧しようとしたことに喧嘩両成敗法の最大の意義を求める理解が一般的である。だが、私的実力行使を抑圧しようとする傾向自体は、その表現のされ方に違いはあれ、武家政権の統治下においては一貫して見いだせるところである。従って、上述のような理解のみでは、両成敗法成立の問題が、時代が下るにつれて支配権を浸透させていく武家政権と、それに抗して自立性を維持しようとする武士たちとの間での力関係の問題に置き換えられてしまい、両成敗法の独自性がどこにあるのかが見えにくくなってしまうように思われる。
 喧嘩という状況は、複数当事者間での争いが物理的暴力行使の応酬というかたちで表面化したものである。従って、これを規制する法令である両成敗法は、従来の研究で注目されてきたような、私的な暴力行使を抑圧するいわば刑罰としての側面とともに、激化した紛争を沈静化させて社会秩序の安定化を図るいわば紛争管理政策としての側面とを併せ持っていると言える。本報告では、両成敗法について、主として紛争処理の側面から検討し直し、その法史上の意義をとらえ直すことを試みる。
 個人とその所属する社会集団との間の結びつきが強固な当時の社会においては、喧嘩は、直接当事者間での武力衝突にとどまらず、その所属する社会集団同士の紛争へと容易に転化するものであった。従って、喧嘩処理は当事者それぞれが所属する社会集団相互間の関係をも射程に入れて対処されねばならない問題であった。管見の限り、個々の事例に対してアドホックに対処するのが武家政権による喧嘩処理の基本的スタンスである。だが、両成敗法は、背景事情を考慮せず双方を一律に処罰するという定式化された処置を以てこの問題に対処しようとするものである。なぜこのような対処の仕方が中近世移行期のわが国に集中的に現れたのか、そしてそれがどのような影響を後世に及ぼすことになったのか等について大まかな見取り図を示すことができれば、と考えている。

ニクラス・ルーマンの歴史観
村上淳一(桐蔭横浜大学)

 ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの社会学的業績は、日本でもしばしば紹介されており、主要な著書の邦訳も次々と刊行されている。しかし、歴史に関するルーマンの業績、ことに論集「社会構造と意味論」全四巻に収められた本格的な「歴史的意味論」研究と、そこから窺えるかれの歴史理解は、まだ不十分にしか紹介されていない。そのためもあって、ルーマンの論敵ハーバマースの「公共性」論が日本の歴史学者の関心を集めたのに対して、ルーマンによる歴史研究は、ほとんど日本の歴史学界の顧みるところではなかったと思われる。しかし、歴史の研究と教育が、意識すると否とを問わず何らかの歴史観を背景とすることを免れない以上、説得力のある複数の歴史観の競合は、研究者の視野拡大に資するものと期待される。それはまた、歴史に対する学生の興味を刺激するためにも望ましいことであろう。この報告では、「社会構造と意味論」第四巻(1995年)に収められた「野蛮の彼方」を手がかりとして、ルーマンの歴史観を探ろうと試みる。



ミニシンポジウム「調停の比較法史」

趣旨説明
川口由彦(法政大学)

 本シンポジウムは、19世紀−近代西欧法が東洋諸国と出会う時期に焦点をあて、西欧諸国(フランス、ドイツ、イギリス)と東洋諸国(中国、日本)において、「調停」がいかにして設計されたかを比較・検討するものである。
 いうまでもないことだが、前近代社会においては、紛争解決に際し、公権力が決定的な収拾力を持っていたわけではない。そこでは、公権力が何らかの裁判判決を下しても、その執行が最終的に保証されるわけではなく、判決の実現には様々な形の社会的非難や当事者による自力執行が必要とされた。事態は、仲裁裁定や調停、和解も同様であり、これらの形による紛争解決も、最終的には、多様な社会的非難、当事者の自力執行を必要とした。したがって、このような社会においては、紛争解決形態に明確な系統的優先序列があったわけではなく、様々な紛争解決形態が、併存し、混在していたといっていい。
 近代法といわれる法システムは、このような自力執行を必要としない、公権力が強力な執行機構を備えたものである。そこでは、当事者の自力執行は、基本的に違法行為として排除される。また、そうであるが故に、手続法のみでなく膨大な実体法が紛争裁定基準として動員される。このような強力な公権力が誕生したことにより、紛争解決形態の併存・混在状態に一応の終止符がうたれ、実体法の解釈・適用を軸とする裁判を頂点とした紛争解決の優先序列が形成されると一応は考えることができる。
 近年、盛んに議論の対象となるADRも、こうした、強力な紛争解決機構を前提としつつ、実定法の解釈・適用だけでは解決できない問題群を想定して提示される、まさに「代替的」な紛争解決方法なのである。
 以上のようなことをふまえた上で、19世紀近代における「調停」が紛争解決システムの中でいかなる位置づけを与えられていたのかを追究するのが本シンポジウムの目的である。
 ここで、「調停」とよんでいるのは、紛争の一方当事者の申立により公権力が強制力をもって紛争解決の場を設定し、第三者がなかだちとなって両当事者を和解させることをいう。この和解が成立することにより、社会的には紛争が解決したものと見なされ、和解内容を実行しない当事者は社会的非難にさらされ、最終的には公権力による強制執行が和解−調停を担保する。
 さて、このような「調停」制度は、西欧でも東洋でも様々な形で存在する。歴史的には、公権力の果たす役割が小さい時代には、公権力の主催する「裁判」とは別の紛争解決チャンネルがいくつもあったのだからこれ自体は当然ともいえる。それが、19世紀に入り、公権力が強力な判決執行機構をもち、私人の自力執行を違法行為として禁圧しはじめても、「調停」のような紛争解決システムは、この公権力の強制執行機構に最終的保証基盤をおくという、以前よりも強力な強制力をもつものとして盛んに利用され続けた。
 民法典や商法典という、膨大な実定実体法の塊を見せられると、人はしばしば、この実定実体法を基準にして、公権力が裁定を下し、当事者の意思の如何を問わず判決内容が実現されるのだと考える。裁判を頂点とする紛争解決の系統的優先序列はこうして出てくる。
 しかし、実は、事態はさほど単純ではない。
 洋の東西を問わず、「調停」は、重要な紛争解決システムであり、しかも、必ずしも、裁判より劣位の紛争解決方法とは考えられていなかった。
 フランスにおいては、1790年の司法改革以降、素人裁判官であるjuge de paixが、一方当事者の申立により、conciliationを行い、しかもこのconciliationは、訴訟に際して必ずこれを経ねばならない−前置主義のシステムのもとに設定された。フランスには、法律家への不信等からする和解志向が根強くあり、裁判とは別個の固有に意義をもつ制度として調停が構想された。この詳しい内容は、松本栄美報告による。
 ドイツには、1879年に出されたプロイセンのSchiedsmanns-Ordnung が存在する。法令の制定自体は、前記の年であるが、19世紀の初めから、プロイセンのいくつかの県で実施されていたものである。選挙制名誉職であるSchiedsmann が一方当事者の申立でSühnenverhandlungを執り行う。このSchiedsmanns-Ordnungは、日本でも、「孛(ぼつ)国勧解人条例」として全条文訳出されており(1886年)、何らかの参照材料とされたと思われる。ドイツ語のSchiedは、通常「仲裁」と訳されるが、この法令を見る限り、Schiedsmann が行うのは、「調停」であって強制力ある裁定を下すわけではない。また、1877年には、ドイツ民事訴訟法により区裁判所でのSühnenversuchが開始される。この全体像は、松本尚子報告を聴いていただきたい。
 このように、西欧の大陸2国では、法的素人が「調停」を念頭にして公的紛争解決に深く関与した。法典国家である仏独2国においてこのように、法的素人による調停が強く志向されたことは記憶されてよい。
 このような「調停」は、日本では、1875年から1891年まで存在した「勧解」と1922年以降展開する各種「調停法」にみられる。これは、一方当事者の申立で、官僚裁判官が調停を行うものである。本企画では、19世紀に焦点を当てるので、報告対象は、明治初年の勧解に限定される。勧解は、フランスconciliationの輸入といわれるが、法的素人ではなく官僚裁判官が執り行うこと、フランスほど長続きせず、近代法典の解釈を十全にできる裁判官が育ってくると廃止されること、勧解の「成立」という概念に大陸には見られない特徴があること等、いくつも論ずべき点がある。これについては、林報告を聴いていただきたい。
 次にイギリスの「調停」を見てみよう。イギリスでは1896年に制定されるConciliation Actがある。この法律は、1824年制定の仲裁法以降の仲裁・調停諸立法をうけて成立するのだが、ここで想定されている事案は、労使関係の調停で、一般的な民事調停を想定しているわけではない。イギリスには一般的な民事調停制度はないのである。
 そこで、考え方を少し変えて、問題を、イギリスにおいて何らかの公権力に関わる職務的権威により、あるいは、職務権限の行使に随伴して、事実上当事者の合意を取り付けて紛争を解決していった現象があるかという様に読み替えれば相当するものはある。地方行政で絶大な裁量権をふるった名誉職justice of the peace治安判事 の合意形成機能がそれである。この治安判事が、令状発行等様々な権限を発動する中で、これらの権限発動と密接に絡まって当事者間に何らかの「合意」が生まれることがいくつもみられる。このイギリスの治安判事が果たした紛争処理機能は、治安判事の全体業務の実態からみていかないとよくわからない点がある。これらについては、小室報告を聴いていただきたい。
 また、「調停」とは別に、イギリスでは、両当事者が「仲裁人」を出し、この仲裁人が当事者の意向を打診しながら裁定を下していくというarbitration仲裁がある。国制史上どのような位置づけが与えられるか議論の余地があるが、この点について北野報告を聴いていただきたい。
 中国の清代聴訟は、裁判官(行政官)が、「断」とよばれる裁定案を示し、当事者を勾留、体罰等をも用いて合意に導く(遵依結状の提出)というものであった。この清国は、その末期において西欧法を導入しようとする。裁判−聴訟自体が調停的性質を持った中国において、西欧近代法的裁判制度が導入されるといかなる事態が発生するのか。きわめて興味深い論点であるが、この点については、清代聴訟及び清末・中華民国の西洋型法制改革における国家的調停制度の検討として高見澤報告がこれを扱う。

プログラム

司  会:川口由彦(法政大学)・岩谷十郎(慶應義塾大学)
趣旨説明:川口由彦(法政大学)
報  告: 総  括:岩谷十郎(慶應義塾大学)
(以上)