【法制史学会企画委員会報告(2002年6月22日、於・北海道大学)】


法が生まれるとき

新田 一郎(東京大学)


 日本中世とくに前期における「法」の語の多くは、現に行われている「やり方」を意味して、いわば認知的に用いられており、社会規範の体系を指すものではなかった。それは「現に実践されている(されてきた)」ことによって認識の対象となり、次の実践の前提として繰り込まれる。「公家法」「武家法」もまた、公家において、あるいは武家において物事が処理されている、その「やり方」をさしたものであり、それらもまた、公家ないし武家との相互関係の体験を通じて、ローカルな「法」実践へと繰り込まれる可能性を持つ。ローカルな「法」の認識はそれぞれの現場ごとに成立し、それぞれの現場において、そうした実践例の堆積が適宜参照され、かつその都度の事情が繰り込まれることによって次々に更新され、その都度の実践的な指針が見出だされていた。そうしてそこかしこにて次々に生成されるローカルな「法」実践は、相互の交渉を通じて緩やかに影響を及ぼしあい、その総体が中世前期の「法」を形作ったのである。こうした視点から、中世前期の社会は、その記述のためにローカルかつ具体的な諸事情の算入を必要とし、抽象的な原則に還元されないという「複雑さ」を持っていた、とすることができる。
 これに対し、13世紀後半には、ローカルな「法」実践をその外部から規律する「公家武家の法」の作用が、重要な意味を持つようになる。「公家武家の法」は、「天下一同」にその存在が認識され、ローカルな「法」の輪郭を画する制限条件として作用する。その条件のもとで、人々の振る舞いかたには、ローカルな条件の差異を超えて通用すべき一般性をもった規矩が生成される。このことは、中世社会が、一般性をもって記述することの可能な構造を獲得し、その複雑さの度合いを低減させたことを意味する。そのことはまた、社会のありようについての、人々の認識方法の転換、識閾の拡大を伴うものであったろう。
 以上の構図は、拙著『日本中世の社会と法』(東京大学出版会 1995年)における議論の骨格に、いささかの修正を施したものである。今回の企画委員会報告は、大略以上のような変化を、個々の具体的な実践に依存することなく社会のありかたを条件づける規矩の生成という意味で、「法が生まれるとき」と表現し、それをめぐって幅広い比較研究の可能性を探ることを、提案したものである。
 以下に、比較研究の可能性を模索するにあたっての論点を例示するが、報告者の専門外の領域にわたるため、その成否については現時点では見通しを得ない。
 たとえば、イングランド中世の封建領主の「規律維持型裁判」に王権による規律が及ぶに至る過程についてS.F.C.ミルソムが描く構図は、上の構図と比較可能なのではなかろうか。
 あるいは、ザクセンシュピーゲルを素材にレーンスヴェーゼンとレーンレヒトの差異について石川武氏が(ちょうど当日の大会報告において)述べられたところを、封建関係が個々の事実として実践され、あるいは事実たる慣行として次々に参照されつつ実践されている状況から、「法」の形をとって抽象化されたモデルに沿って規律される状況への推移として理解するならば、上の構図との比較が可能なのではないか。
 一方で、次のような問いも立てられなければならないであろう。
 第一に、「それは必然か?」。たとえば中国においては、そうした転換が見出だされるのか。寺田浩明氏らによる近年の研究は、否定的な答えを示唆するであろう。だとすれば、こうした転換が生ずる条件をどのように想定すべきだろうか。
 あるいはまた、「それは不可逆か?」。いったんそうした転換が生じ、具体的な実践の外部から制限条件を供給する構造が形成されたとして、そうした構造は永続的なものかどうか。永続的なものでないとしたら、それが存続する条件はどのようなものか。
 さらに、「生み出された法」は、一様な構造を持っていたわけではなく、たとえば日本の中世から近世へと至る過程では、平準化を志向する西欧近代法的な方法とは異なる方法で社会の「複雑さ」が処理されたことが予想される。そうした差異を生み出す条件についても、比較研究の可能性が模索されえよう。
(2002-08-31掲載) 


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